なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

牧師室から(7)

 今日は、大分前に教会の機関紙に書いたものですが、ここに掲載します。 
                 
                 牧師室から(7)

 私たち人間は社会に生きていますので、どうしても社会の中での自分の存在を見出さなければなりません。いろいろな社会の規範も守れるものは守っていかなければなりません。社会的な規範の一例として身近なところでは交通ルールのようなものがあります。日本では右側通行ですので、自動車で道路を走る場合は右側を通らなければなりません。自分はどうしても左側を通りたいと思っても、もしその自分の思いを強行すれば事故が起こるのは必然です。そのような社会的な規範の他にもイデオロギーや社会通念や常識と言われるような客観的な規範とまでは言えないとしても、社会的な圧力のようなものもあります。能力主義や学歴主義や均一主義が日本の現代社会には蔓延しています。それらの主義に逆らって生きようとすると、いろいろな抵抗に出会います。

 社会的な関係を公の関係とすれば、個人のことは私の事柄です。公私の区別をつけるということが言われますが、そう簡単なものではありません。橋爪大三郎は私たち人間の個としての存在にはブラックホールのようなものがあると言います。自分自身でも分からないマグマのようなものを内面深くに私たち人間は抱えているものだと言うのです。その領域は公的なものにも私的なものにもまだ定形化しない無の領域であり、もしかしたらそこが私たち人間の神との接点であり、真に創造的な人間の領域なのかも知れないと、私は最近思うようになりました。             
                                     (2004年11月)

 12月の神奈川教区常置委員会のときに、補教師試験受験者の面接がありました。今回は7人の方が面接を受けました。6人の方はそれぞれ来年3月に神学校を卒業して4月から教会に赴任する予定の方でした。一人の方は仕事を退職後自分で勉強して補教師試験を受験している方で、何回かに分けて単位を取るために、教区の面接も今回が三回目とのことでした。この面接には常置委員および陪席者からの質問があり、受験志願者は答えられる範囲で答えることになっています。もちろんこの面接の質問への回答は強制ではありませんので、答えない自由は保障されています。しかし、これから教団の教師として共に働いて行かれる方々ですから、できるだけ自分の言葉で質問に答えようとすることは大切ではないかと、常々私は思っています。ほとんどの受験志願者は質問に答えます。

 今回1人の常置委員から、教団の教勢の減退についてどう思うか、という質問が出ました。2人の受験志願者からはっきりと、教会の側に問題があるのではないかという回答がありました。青年が教会に来ないのは、教会が青年の現実をどれだけ理解しているのかが問われているのであり、青年の居場所が教会にあれば、青年は来るのではないか。自分が企業で働いていた経験から、日曜日教会に行くことは本当に大変であると感じたが、教会はそのようなこの世で働いている人のことをどれだけ理解しているのかと。

 私はそれを聞いていて、本質を突いた回答だと、うれしく思いました。        
                                     (2004年12月)

 役員会で、私が去る教団総会冒頭で十数人の人たちと共に抗議したことがある立場の人たちからは暴力だと言われていると報告しましたら、教会員の方々にそのことをちゃんと説明しておくべきだという意見がありました。自分の所属する教会の牧師が暴力牧師と言われるのは、教会員の方々にはとてもつらいことだからだと。それはそうだと思いました。いずれ何かの機会にきちっと説明したいと思います。

 ところで暴力とはどういうことを言うのでしょうか。たとえばいじめの中で陰湿な無視ということがあると言われます。その子がクラスの一員であるのに、その子があたかもクラスにはいないかのように他のクラスメートがあらゆる場面でその子の存在を無視するのです。無視される子どもの心理的なストレスは相当なものでしょう。学校に来れなくなるのも分かるように思います。実力行使としての暴力は振るわれていなくても、このような無視は一つの暴力に違いありません。民主的な会議の場で多数者の暴力がまかり通るということもあります。国会で行われる野党の議長席占拠なども多数者による多数決の暴力に対するささやかな抵抗なのでしょう。

 私は教会の会議は可能ならば全員一致をめざすべきではないかと思っています。実際には不可能ですし、人によっては全員一致はあり得ないと言いますし、その通りでしょうが、それでも全員一致をめざすことが教会では大切だと思っています。福音における一致や和解や平和を信じているからです。                                         (2005年1月)

 もう大分以前になりますが、滝沢克己さんの本を読んでいたときに、人間の幸福とは何かということで滝沢克己さんが「食べて、寝て、遊ぶ」ことだというようなことを書いていたのに、いたく感動したことを思い出します。最近読んだ本の中に取り上げられていた吉本隆明の言葉も、滝沢克己さんとどこかで通低しているのではないかと思います。それはカール・マルクスについて書かれたものの中に出てくる言葉ですが、「市井の片隅に生まれ、そだち、生活し、老いて死ぬといった生涯をくりかえした無数の人物は、千年に一度しかこの世にあらわれない人物とまったくおなじである」という言葉です。社会的な地位だとか名誉だとか、その人が何をしたのかという功績によって、私たちは人間の価値を判断しがちですが、そんなことは、一人の人間がこの世に生まれ、育ち、生活し、老いて死ぬということからすれば、取り立てて言うほどのことではないというのです。もしそのような人間の人生の価値をみんなが同じように生きているのだということについて思い巡らすことができているとすれば、「社会的な地位や発言力をもつことよりも、自分が接する家族と文句なしに円満に、気持ちよく生きられたら、そのほうがはるかにいいことなのではないか」と言えるのではないでしょうか。

 最近「自己実現」ということがよく言われますが、その大切さを知りつつも、何のための自己実現なのかよく考えて見る必要があるでしょう。 
                                      (2005年2月)