なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(122、復刻版)

       黙想と祈りの夕べ(通信122[-17]2002・1・27)復刻版

 新しい年になってはじめて鎌倉の軽費有料老人ホームの聖書を学ぶ会に伺いました。そのホームには教会員のYさんが入所しており、彼女の訪問を兼ねて、隔月の聖書を学ぶ会を担当するようになって、かれこれ4年半が経とうとしています。多い時は20数名の参加がありますが、だいたい15名前後というところです。

 この4年半の間にも、参加するメンバーの入れ替えがありました。今まで参加されていた方が、入院したり、事情があって退所されたり、あるいは帰天されて、参加できなくなります。その代わり、新しく入所された方の中から参加する方もあります。現在参加されている方の中にKさんという方がいらっしゃいます。私は、毎回詩篇の一篇を味わい、その後参加者から自由な発言を中心とした話し合いの時を持っています。今回は新年ということであり、参加者からこの年の抱負について、パスも自由ということで、話していただきました。

 Kさんは、最近頭が軽くなって考えがまとまりませんがとおっしゃって、私は、このホームでの毎日の生活にもいろいろわずらわしいこともありますが、アフガニスタンの難民のことや世界平和のことを考えるようにしています。そうすると、日常のわずらわしさに心を捕らえられなくて、心を広くもつことができるように思いますので、そのように心がけています、と言われました。いつもお年寄りの発言の中にある宝石のような輝きに感心させられていますが、Kさんの発言も光っていました。日常生活の中のトラブルも丁寧に解決する努力が大切ですが、Kさんの心の持ち方に教えられました。

 上記の私の発言に続いて、一人の姉妹が下記のような発言をしました。

 今日の午後障がい者の集まりに出席し、講師の話を聞いた。障がい児の作業所でよい働きをする自閉の子が、みんなから期待されるようになって、引きこもりがでてきている。パターンを繰り返す作業が、子供にとって虚の世界で、本当は実の世界を求めているのではないか、と講師は言われた。自分自身のことを振り返って見て、教会に集うことはどういうことかを考えさせられた。求めて来ている者には、教会は実の世界かもしれないが、習慣化した場合、教会も虚の世界ではないだろうか。教会に来ることが、その人なりに能率優先の虚の世界ですり減って行く自分を取り戻し、虚から実の生へと導かれたらと願う。自分を含めてもっと沢山の人たちが、そのような教会との関わりを持ち、神の命に生かされて生きていけたらいいなーと思った。

 別の姉妹は、今ご自分が関わっているグループの代表という仕事の重さについて語られた。自分は体や少々頭を使うボランティアの仕事は少しも苦にならないが、責任の重い代表という仕事には、重いものを感じている。イエスが自分と共に歩いていてくださることを信じ、ゆだねながら何とかこの責任を果たしたい。この自分のために祈って欲しい。
 
 また別の姉妹は、今日は午前中用事があって外出した。自分の歩いていた時、自分の体スレスレに猛スピードで一台の自動車が走り過ぎていった。その自動車がもう少し内側に来たら、自分も交通事故に巻き込まれたと思う。気をつけていて守れるものでもないが、交通事故の恐ろしさを実感させられた。この小さな体験を通して、ゆとりをもって毎日過ごすことの大切さをしみじみと感じさせられた。
 
 この日は近くのホテルに宿泊している姉妹も出席した。


      「神が造られたもの」(『ルターの日々のみことば』から)

 「神の霊はわたしを造り、全能者の息はわたしを生かす。」  ヨブ33:4

 神がわたしを造られたということは、わたしの強い信仰です。すなわち、神は、わたしのからだ、いのち、魂、四肢、五感、理性、理解、それから、食べもの、飲みもの、着物、妻、子供、しもべ、家、家庭を与え、たえず、支えてくださるのです。さらに、全被造物をわたしたちの日ごとの生活の益となるようにしてくださいます。天にある太陽、月、星、夜、昼、さらにまた、火、水、地球、地球の産出、たとえば鳥、魚、家畜、穀物、各種の植物などすべてのものです。それからまた、他のこの世的な恵みもあります。よい支配者、平和、安全がそうです。

 このように見てくる時、いのちにしろ、以上述べたものにしろ、その他どんな小さく、無価値に見えるものでも、自分でそれを保持するとか、維持することができる人は世の中にひとりもいないのです。なぜなら、これらすべてのものは、「造り主」という一言のうちに集約されるからです。それにもかかわらず、この真理について、もしここでその理由を述べるとすれば、多くの紙面をさかなければなりません。わたしたちすべてはこの真理について聞き、また、くり返します。しかし、このことばの真意を理解しません。また、それについて思いめぐらすこともしません。

 なぜなら、もし、わたしたちの心の底からこの真理を信じるならば、この真理と一致した生き方をするからです。あちこち誇らしげに、ごうまんに歩き回って、いかにもわたしたち自身で、いのちや、富みや、力や、ほまれを持っているかのごとき態度をとらなくなります。そうでないならば、よこしまで邪悪な世がそうであるように、たえずこれらのものをおそれ、それに仕えなければなりません。それゆえ、この真理をまことに信じるならば、それはわたしたちすべてを、けんそんにし、驚かせます。なぜなら、わたしたちは毎日、目、耳、手、からだ、魂、金、財産、その他持っているすべてのものによって罪を犯しているからです。
                                大教理問答書