なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(224)復刻版

 今日は「黙想と祈りの夕べ通信(224)」復刻版を掲載します。今日はこれら船越に移動し、明日の

私の裁判支援会通信7号の発送作業の準備をします。


       黙想と祈りの夕べ通信(224[-15]2004・1.11発行)復刻版

 年末の29日(月)夕方ごろに若い男女が訪ねて来ました。二人は前日の日曜日に礼拝にも来ていたカッ

プルです。今年の秋に結婚式をしたいが、当教会でできないか、ということでした。形式的には当教会の

決まりによりますと、教会員以外の場合、誰か教会員の紹介者が必要です。そういう方がいない場合でも

日曜学校に来ていたことがあるとか、礼拝に出席している人の場合には、受け入れるようにしています。

二人の話をして、そのように申し上げました。女性は登戸に男性は八王子に住んでいますので、毎日曜日

礼拝に出席することは難しいとしても、出席するなら、私が推薦するようにしましょうと、お話ししまし

た。彼女は、結婚式をお願いする場合、教会の方にどれだけ負担をかけるのか、結婚式をしてもらったら

洗礼を受けないといけないのかと尋ねてきました。この教会では特に教会の方のお手伝いはお願いしてい

ないこと、結婚式をしたからと言って洗礼を受けなければならないということはないことを説明しまし

た。その他28日(日)の私の書いた週報コラムについても質問されました。一時間ほど話して帰りまし

た。今日の1月4日の礼拝にも二人は出席していました。誠実に結婚ということを考えているようで、二人

には好感が持てました。これまで電話での結婚式の依頼は、こちらの決まりを申し上げて、該当しない場

合にはお断りしてきましたが、少し丁寧に面談していった方がよいのかも知れないと思っています。面談

してお断りするのが、なかなか心情的には難しいので、電話での依頼の場合は、今までビジネスライクに

答えてきました。けれども、現在結婚が女にも男にもその人の人生の選択肢の一つになってきている中

で、あえて結婚の道を選んでいく男女に、二人が希望するなら結婚式をして、何等かの形で二人に同伴し

ていくことも、牧師の働きの一つではないだろうかと考えはじめています。

 上記の私の発言に続いて一人の方からの発言がありました。テレビで犬養道子養老孟司の対談を観

た。世界の難民のために尽くす犬養道子さんの迫力、その口から出る言葉の力強さに圧倒された。彼女

は、自分の働きを与えられたものとして誇らずに謙虚に受け止め、その厳しい状況の中で精神も侵されて

ゆく子どもたちを、自分はたださするだけで何も出来ていないと言う。何千人もの子どもたちに資産を投

げ出して関わっているのに。二人が共通して言っていたことは、日本は物は豊かであるが人間の本当の豊

かさが欠けているということだった。貧しい国では子どもを出産してもその子どもが死んでいく率が高

い。悲しみの経験をしていく者が多く、悲しみを分かち合う共感の豊かさが育つ。私も戦後の時期を通っ

ているが、そのことが少し分かるが、現在の若者は死の経験を持つ者が少なく、ボランティアに来ても、

ただ可哀想だと泣いているだけで、手足を動かせない人も多いと言う。豊かさの中の欠けを感じる。貧し

かった時代に戻り得ないわけだから、この物の豊かさの中で、心の豊かさを持っていくにはどうしたらよ

いのか、日曜学校の子どもたちと考えていきたい。

 続いてもう一人の方からの発言がありました。私も同じ番組を観て、難民の話は今までにも聞いていた

が、今回は聞くに堪えない状況を知り、驚いた。話は違うが、息子がエルサルバドルでの仕事を終えて、

守られてきたことを心から感謝している。心配で心が揺れ動くこともあったが、黙想と祈りの夕べによっ

て支えられた。息子と一緒に仕事をしていた人たち一同帰ってこれて感謝である。

 さらに別の方からの発言がありました。自分は久しぶりにこの夕べの集いに出席した。私が信仰に導か

れたフリーメソの教会で去年50周年の会があり、出席して昔の友人と再会した。その教会は50年間に九つ

の教会や伝道所を生み出している。そのパワーにびっくりした。昔知っていた人がそれぞれの教会、伝道

所に散っているが、皆礼拝をしっかり守っている。私は地域の働きやボランティアで日曜日の礼拝に来れ

ないことも多いが、「Yさん、礼拝を守ることが信仰者の前提でしょ」と言われ、祈っていきなさいよと

勧められ、ショックだった。今日は寿の越冬の炊き出しがあり、人数が足りないと言われ、午後1時ごろ

まで参加し、礼拝に出席できなかった。黙想と祈りの夕べがあるので、心の中で礼拝をと思って参加し

た。出来るだけ礼拝を守って自分の活動をしていきたい。



        「道は一つ」(『ルターによる日々のみことば』より)


 わたしは道であり、真理であり、命である。だれもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはで

 きない。                  ヨハネ14:6


 この世の終わりが来て、他のいのちへ移っていく時、あなたの望むところを求め、またなしなさい。す

なわち、この唯一の道を選ぶか、永遠に滅びるかです。キリストはおっしゃっていました。わたしは、あ

なたが父のところに行くための唯一の道であり、ほかにはない。「わたしは真理であり、いのちである。

わたしだけがそうである」。ですから、わたしたちはこの人にしっかりとすがりつき、わたしたちの告白

する信仰のうちにしっかりとどまり、苦しみの時にも、死の時にも、つねにそうするのです。そして、次

のように言います。

 わたしは、キリスト以外に救いとか相談相手、助けとか慰め、道とか進路を見いださない。わたしの主

キリストは、わたしのため、苦しみ、死に、よじがえり、天にのぼってくださった。このかたにのみ、わ

たしはよりすがる。たとえ、よみと、死と、悪魔だけが、わたしの四方を取り囲んでも、わたしはたゆみ

なく主にすがろう。それは、このかたは、鉄製や石づくりのものにまさる堅固さをもった、正しい道であ

り、橋であるからだ。たとえ、この真理が成就せず、わたしをあざむくことがあろうとも、その前に天地

は爆発するにちがいない。

                             ヨハネ福音書14章の講解