なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(226)復刻版

 今日は「黙想と祈りの夕べ通信(226)」復刻版を掲載します。225号は私がまとめていませ

んので、割愛します。


       黙想と祈りの夕べ通信(226[-17]2004・1.25発行)復刻版

 1月に入って数名の介護施設に入所しています年長者をお訪ねしました。そこで感じたことをお

話しします。特に一人の方は、二つの施設を経験して、どうしても前の方が良かったという思いが

強く、新しい施設に入ってからすでに半年以上になっているのですが、今のところにはなかなか適

応できなくて苦しんでいます。設備の面では以前の施設よりも新しい所の方がはるかに整っている

ように思われます。ただ温かな人間関係ということからしますと、新しい施設は前のものより建物

としても大きく、多分入所者も倍くらいいると思われますので、それだけ人間関係が組織的・形式

的になるのではないかと思われます。その方が前に入っていた所は、ご存知の方も多いと思います

が、Kホームです。Kホームは個室のスペースも狭く、公の場所もそれほど広くありませんが、入

所者の顔は明るく感じられます。私は隔月にKホームに聖書のお話をしに行っていますが、その集

いに来る14~15名の方々もみなこのKホームに入れてよかったと、口をそろえて言います。決

して外交辞令ではなさそうです。何が一番違うのか考えてみました。Kホームの人間関係が人格的

であるということではないかと思います。その他にKホームでは礼拝や聖書のお話があり、入所者

同士のコミュニケーションも豊かで、入所していますお年寄りも身辺自立のできた人です。つまり

Kホームは軽費有料老人ホームで身辺自立の出来ている方が対象で、一方現在の施設は老人保健施

設で、入所者の多くの方が介護を必要としていますし、Kホームの礼拝や聖書の集いのように、自

主的に集まってお話を聞いたり、讃美歌を歌ったり、時にはお互いに話し合う機会がないようで

す。その違いがその方にはおおきいいのではないでしょうか。そういうことを考えますと、大きな

施設での生活ではなく、ラルシュ共同体(ジャン・バニエ)のような少人数の共同生活が望ましい

のかも知れません。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。今日の聖書朗読のヨハネ福音書2

章1-11節のところにイエスの母マリアが登場する。カトリック教会ではマリアが聖母マリア

して崇められている。自分は戦前から戦後の価値観が180度変わった中で、動揺し、カトリック

の神父さんから半年間公教要理を学んだ。その時もマリア信仰についてよく触れていた。今日の聖

書に出て来るマリアから、そのことを思い出した(カトリックのマリア崇拝について尋ねられ、北

村が答えた)。

 また別の人の発言がありました。今年の芥川賞は19歳と20歳の女性が受賞した。この二人の

他にも若い女性の活躍がいろいろな分野で光っている。バブル崩壊前までは比較的苦労なしに育っ

てきたが、バブル崩壊後のいろいろな苦労を背負った両親の下で育った子どもたちが、いろいろな

悲しみや苦しみを経験して、それをバネに自分の表現をしている。芥川賞の一人の女性は、不登校

自傷経験者とのこと。一人一人が個性的に生きていくことが認められてきたのではないか。今の

若い人たちはすごいなあという言葉が聞かれる。社会が閉塞してその時代が大変なときに、子ども

たちは傷つくことも多く、苦労を味わうだろうが、そのような子どもたちには優しさがあり、そう

いう子どもたちがこれからの新しい社会をつくってくれるのではと、期待している。厳しい社会の

中でその重さにつぶされてしまう人も多く胸が痛むが、人間の優しさや強さが育って、次の時代が

つくられていることを感じる。自分は何ができるのか、そういう人たちに支えられながら、老いを

迎えるのだが、将来を楽しみに感じている。



     「失われた者を求めて」(『ルターによる日々のみことば』より)

 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、その

 まま受けいれるに足るものである。
                              第一テモテ1:15

 キリストは、「わたしの使命は人々を救うことである」とおっしゃっています。キリストは、ま

ことの主人として、自分の仕事について生き生きと語ることができます。自分の仕事について詳細

まで知っている人は、それについて語る権利があり、それによって、すべての人は彼が熟練した仕

事場の主人であることを認めます。キリストも、実は、ご自分の仕事のこのような主人でありま

す。ですから、自分の仕事、使命について確信をもって語るのです。「わたしは、失われたすべて

の人を助けるためにやってきた。これがわたしの仕事であり、使命である。わたしは、新しい律法

をこの世に負わせるためにつかわされたのではない」。この世には、人々が守ることのできる以上

の律法があります。国家、父母、学校の先生、看守、すべての人は律法によって治めます。しか

し、主キリストはこうおっしゃいます。「わたしは、さばき、咬み、苦情を言い、人を罪に定める

ためにきたのではない。世は、悪魔とよみの力の下にあるから、あまりにもきびしく罪に定められ

ている。それゆえ、わたしは律法によって人を支配しない。わたしは、わたしの降誕と死によっ

て、失われたすべての人に救いを与え、律法と、さばきと、罪の重荷にひしがれそうになっている

人を解放し、自由にするためにきたのである」。

 これこそ、主イエスがご自分の愛の姿を描いて言われた慰めのことばであり、ヨハネが3章に言

っていることばとも一致するものです。「神はひとり子をこの世にたまわった。それは世をさばく

ためではなく、彼によって、世が救われるためである」。「わたしは、すでにさばきを受け、さば

く人々と、さばきで満ち満ちている世にきた。わたしはこれらのさばきを取り去ろう。それによっ

て罪に定められている人が救われるためである」。わたしたちが絶望の底から得たいと望んでいる

のは、実に、このことばです。

                            ヨハネ福音書3章の注解