なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(34)

 私は連れ合いと共に群馬のある教会に招かれ、昨日日曜日の礼拝説教と学習会の責任を果たしました。現在教団では免職中の私を呼んでくださって、教会の方々は納得しているのか不安でしたが、是非にと言われて、お断りせずに伺いました。礼拝後の学習会の中で、聖餐や戒規免職の問題も話題になりました。私の立場からお話しましたら、参加者の一人の方が、教会として今度は私とは反対の立場の人を呼んで話を聴き、その上で私と私の反対の立場の人が話し合うことができるようにしていったらどうでしょうかという意見を述べられました。私は、各個教会がそういう姿勢を持っているのは大切ではないかと、その方の意見を聞いていて思いました。お互いの違いを認め合って、それぞれの至らなさをお互いに補い合いながら共に生きていく関係が、いろいろなところで構築されていくならば、足の引っ張り合いのない豊かさが生まれるのではないでしょうか。
 私と連れ合いは、日曜日教会の行事が終わってから、群馬の梨木温泉の一軒宿に案内していただきました。私たちを呼んでくださったのは、私が教団から戒規免職処分を受けていて、私たち夫婦が疲れているのではないかと、ゆっくり温泉で休んで欲しいという思いもあったからというのです。そして翌日の今日は、教会員の方と牧師に自動車で案内されて、星野富弘美術館、足尾銅山に行き、その後日光中禅寺湖の紅葉と華厳の滝によって東部日光駅まで送ってくれました。それぞれ大変印象に残るものを与えられて、恵まれた2日間を過ごさせていただきました。教会員の方は私が紅葉坂教会時代にその娘さんの結婚式を司式した方ですが、牧師は私が戒規免職になったことについて教団の一員として責任を感じておられるとおっしゃっていました。そいういう教職の方がいてくれるということは、私にとっても嬉しいことであり、力強いことです。
 さて、今日は「黙想と祈りの夕べ通信(34、復刻版?)」を掲載します。
 
  黙想と祈りの夕べ
   (通信 34 2000・ 5・21発行)
 
 前回の「黙想と祈りの夕べ」での「分かち合い」では、はじめに私が、ボンヘッファ-の言葉とその日の主日礼拝聖書箇所のイザヤ書の言葉について話しました。ボンフェッファ-の言葉は、「わたしはあなたの道は理解できない。しかし、あなたはわたしのために、正しい道を知っておられる」(5月16日の言葉から)です。イザヤ書の言葉は、「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる」(55:8)です。そしてイザヤ書では、このような神の口から出る言葉は、むなしく、神のもとに戻らないで、私たちの中で実現成就すると言うのです。私たちの思いや私たちの道とは異なる、神の思いと神の道が私たちの中で実現成就するという約束は、私には不思議な自由を与えてくれるように思えます。同じことが、ボンフェッファ-の上記の言葉にも言えます。私たちには神の道は理解できませんが、神は私たち以上に私たちにとっての正しい道を知っておられるというのです。ですから、理解はできなくとも、神の与え給もう道を祈り求めて生きて行くのです。そこに、私たちには冒険と発見という信仰の道があるのではないでしょうか。
 一人の姉妹からは、先日の祈祷会でのY兄の奨励にも触れて、文明の問題についての感想が語られました。最近娘がパソコンを始めるようになって感じているのは、家族の共有の場と時間がますます少なくなって行くことである。一人でパソコンから情報を得る。夜おそくまで。昔であれば、朝、日の出と共に人の活動が始まり、日が沈み夜になれば眠るという、自然のサイクルに合わせて私たちの生活があった。パソコンによって、いろいろな情報を得られるのは悪くないが、寝る時間が短くなったりして、人と自然とがますます離れて行くように思われる。自然のリズムは人と人との関わりにも暖かさを与え、命の豊かさに気づかせてくれる。自分は花や土をいじるのが好きだが、そうしていると落ち着く。神の与えてくれた自然を大切にして、人間らしく歩みたいと思う。
 また、一人の兄弟は、連休の時に実家に帰って、日曜日に近くの教会の礼拝に出た時に、牧師の説教の中で、教会は罪を犯した人も誰でも来れるところだと語られたが、本当にそうだろうかという問を投げ掛けました。その日の当教会の週報コラムにも触れながら、教会は、30代の独身者に対してどいういう思いをもっているのだろうか。また、ハンディキャップのある子をもつ親が抵抗なく教会に来れるだろうか。教会には、誰でもが受け入れられるというよりも、人を排除してしまう壁のようなものがあって、その意味で、教会にも限界点があるように思う。自分自身、人を受け入れることがなかなかできないが、受け入れられる人になって行きたいと。
 このことは、私たちの中にある「排除の構造」という問題でもあり、大変重要な指摘だと思いました。おそらく教会に来ている人は自分たちは誰も排除しようとは思っていないと言われるでしょう。けれども、そいういう私たちの側の自意識を超えて、私たちの無意識に排除の構造がはりめぐらされているのではないかと思います。私たちの中にある排除の構造が無意識であるとすれば、なかなか自分からそのことに気づくことができにくいということでしょう。そこにこの問題の難しさがあるように思います。それは差別の問題にも繋がるのではないかと思います。排除や差別を感じて、勇気をもってそのことを語ってくれる人の言葉に耳を傾けて行きたいと思います。