黙想と祈りの夕べ通信(497)復刻版を掲載します。2009年3月のものです。496
は割愛しました。
昨夜私の支援会の「最高裁上告棄却報告集会」が紅葉坂であり、60名の方が集まってくれまし
た。この集会では、特に戒規免職処分ということが、当事者である私だけでなく日本基督教団に
所属する者にとってどれだけ深い魂の痛みであるのかということが、フロアーからの発言の中に
ありました。おそらくこの発言には、私の教団における戒規免職処分は、戦時下の教団が6部、
9部のホーリネスの牧師に自ら辞任届を出させて処分したことに通底している、日本基督教団に
属する同じ仲間の排除切り捨てであるという認識があるものと思われます。戦時下のホーリネス
の牧師の排除切り捨ては、ホーリネス教会及び牧師に向けられた国家の弾圧が自分たちも及ぶこ
とを恐れたからでしょう。今回の私の場合は、自分たちとは違う考え方の者は認められないとす
る教条主義的な信仰と見せしめという陰湿な精神による排除切り捨てではないかと思われます。
どちらにしても仲間へのそのような仕打ちがなされる日本基督教団という教会の質が問われてい
るのだと思います。
このことを真摯に問う人々が日本基督教団の中にはまだ多くいることことを今回の集会で確信
できて、私は嬉しく思うと共に、日本基督教団という教会にまだ希望が持てると強く感じました。
その私の思いを言葉にして、みなさんへの呼びかけにしてみると、以下のようにねるようになり
ます。
・ 分断と排除はやめましょう。
・ 一部の人たちではなくみんなの教団にしましょう。
・ キリストにある一致を信じ、多様性を認め、対話による一致をめざしましょう。
黙想と祈りの夕べ通信(497[-26]2009・3・29発行)復刻版
3月25日(水)の黙想と祈りは私一人でした。一人で静かにイエスの苦難と十字架を思い巡らし、
黙想の時を持ち、少し何時もより早めに終えました。そこで、今回はこの受難節に思い巡らすにふ
さわしい言葉を紹介させていただきます。
わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのであ
る。 (ルカによる福音書9章23-25節)
【〈自分の十字架を負うように〉というイエスの言葉を聞いて、すぐに〈自分でどこへ「十字架」
を探しに出かけ、手あたり次第に「苦しみ」を見つけてこなければならない〉と考えてはならない。
すでに一人一人に、十字架が神によって備えられているということ、髪によって定められ、割り当
てられているということである。十字架を負う者は、神の定めたはかりによって苦しみ、また捨て
られるのであって、その苦しみや捨てられる度合いというものは、人によって異なるのである。あ
る人に対しては、神は彼が大きい苦しみを受けるに値すると考え、殉教の恵みを与えるかもしれな
い。また他のある人に対しては、神は彼の力にあまる試みに出会わせないようにするかもしれない。
また他のある人に対しては、神は彼の力にあまる試みに出会わせないようにするかもしれない。し
かしいずれの場合にも、彼らが負う十字架は同じひとつの十字架なのである】
( D. ボンヘッファー)。
昼の十二時になると、全治は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。
「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てにな
ったのですか」という意味である。 (マルコによる福音書15章33-34節)
【イエスは、地上でただひとりである。かれの苦痛を感じとって、分けあってくれる者がいないど
ころか、それを知ってくれる者もいない。ただ天とかれご自身だけが、それを知っているだけである。
イエスは園におられる。・・・・イエスがおられるのは、業苦の園。
イエスは、おそろしい夜のさ中に、この苦しみと孤独とを忍ばれる。
イエスがなげきをもらされたのは、ただこの時一回きりで、これまで決してなかったと思う。しか
し、この時には、あまりの痛みにもう耐え切れなかったかのように、うめかれる。「わたしの心は悲
しみのあまり死ぬほどである。」
イエスは、世の終わりまで苦しみもだえておられる。このあいだ、眠ってはならない】
(B.パルカル)
霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。
(ガラテヤの信徒への手紙5章16-21節)
【イエスは、天国を愛する者を多く持っておいでになる/ しかしその十字架を担う者はわずかしか
いない/ 慰めを乞い求める者は多く持っておいでだが/ 苦難を願う者はわずかである/ その食
卓を共にする人は大ぜい見つかるが/ 断食を共にしようとする人はわずかである/ ひとはだれし
もキリストと共に喜ぶことを求めるが/ 彼のため真に耐え忍ぼうと志す者は少ない/ パンを裂く
ときまではイエスに従っていく者は多いが/ 苦難の杯を飲むところまで従う者は少ない】
(トマス・ア・ケンピス)
「人生の秋」 3月29日
紅葉した秋の木々は目を眩ませるばかりのすばらしい色彩を繰り広げます。深紅、紫、黄、金、
赤茶など数えきれない変化と組み合わせの見事さを見せてくれます。そいて言語に絶する美しさに
輝くと、まもなく地面に散って死んでゆきます。寒々とした裸の木々を見て、私たちは冬の近いこ
とを思います。同じように、人生の秋もまた、非常に彩り豊かなものとなり得ます。知恵、ユーモ
ア、やさしさ、忍耐強さ、喜びなどこれからのものが私たちの人生の終わり間近に、みごとな花々
となり満開に咲き出すかもしれません。
裸の木々を見て亡くなった人々を思い起こす時、その人々の内に垣間見た美しさに感謝し、希望
を持って新しい春を待とうではありませんか。
(ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)