黙想と祈りの夕べ通信(495)復刻版を掲載します。2009年3月のものです。
黙想と祈りの夕べ通信(495[-24]2009・3・15発行)復刻版
今日はIさんを病院に見舞い、その帰りにYさんをお訪ねしました。地図で検討をつけて、保土ヶ谷駅東口を
出て、国号1号線を保土ヶ谷橋から井土ヶ谷切通しに行き、高速道路狩場線が上を通っているところを右手
から階段で登ると、保土ヶ谷区と南区の境界の地域になります。南区の方は永田北町、保土ヶ谷区の方は瀬
戸ケ谷町です。Yさんのお宅は瀬戸ケ谷町ですので、大体この辺だろうと思って歩いていましたらYという表
札を発見しました。私としてはめずらしく一度も迷うことなくYさんのお宅を見つけることができました。
いつもはなかなか分からずに、電話をかけてお聞きすることが多いのですが。玄関のインターホーンをおし
ましたら、玄関が開いて出てこられた方がYさんでした。比較的お元気で、ほぼ一年ぶりの再会でしたが、
私のことがすぐ分かったようで、「先生」と言って、Yさんの方から声をかけてくれました。玄関前で失礼
しようと思いましたが、部屋に案内されましたので、少しお話をしてお祈りして帰って来ました。日常生活
はお連れ合いがほとんどしておられるようですし、一人での外出はご無理のようですが、家で元気にしてお
られるようで、安心しました。何回かお電話したのですが、電話にはお連れ合いが出られて、家では元気に
しているということでしたが、状況がよく分かりませんでしたので、思い切ってお訪ねして見て、よかった
と思います。
さて今日の聖書朗読箇所の一つ詩編10編には、神に逆らう傲慢で貪欲な人の犠牲になっている貧しい人を神
が顧みてくれるようにということが記されています。「立ち上がってください、主よ。/神よ、御手を上げ
てください。/貧しい人を忘れないで下さい。」(12節)。「主よ、あなたは貧しい人に耳を傾け/その願
いを聞き、彼らの心を確かにし/みなしごと虐げられている人のために/裁きをしてくださいます。」
(17,18節)と。一方「神に逆らう者は自分の欲望を誇る。/貪欲であり、主をたたえながら、侮って
いる。/神に逆らう者は高慢で神を求めず/何事も神を無視してたくらむ」」(3、4節)とあり、「逆ら
う者、悪事を働く者の腕を挫き/彼の反逆を余すところなく罰してください。」(15節)とあります。去る
年末年始に日比谷公園にできた派遣村の村長をされた湯浅誠さんなどが、現在の日本社会は「貧困スパイラ
ル」に陥っていると言っていますように、収入が少なく生活が苦しい貧しい人がどんどん多くなり、格差が
広がっています。詩編10編を読みながら、神を信じる者は、みんなが安心して生活できる社会にしていかな
ければと思わされました。
上記の私の発言に続いて、一人の方の発言がありました。町でばったりTさんに会った。今日夕方Kさんから
電話があった。大磯のエリザベス・サンダースホームのテレビ放映が今夜9時からあるということを知らせ
てくれた。以前Kさんを誘って教会の方数名とエリザベス・サンダースホームに澤田美喜さんが蒐集された
キリシタンの遺品を観にいったことがあるので、今回のテレビ放映を菊地さんが知らせてくれたのである。
うれしかった。実は先週の土曜日コミュニティーで行なわれた朗読の舞台に出て、それが終わってから息子
が箱根に連れて行ってくれた。それが7日(土)、8日(日)である。8日にはちょうど帰りに車で大磯を
通ったときに、エリザベツ・サンダースホームのことを思い出していたので、今回Kさんからテレビ放映の
ことを知らせてもらって、不思議な感じである。
「誠実に共にいる」 3月15日
大きな苦しみの中にいる友人と一緒にいるのはやさしいことではありません。私たちは居心地が悪くなり
ます。何をし、何を言ったらよいのか分からず、語ってくれることにどう答えたらよいのか悩みます。苦し
んでいる人を気遣うよりも、自分の恐れから何か言ってしまう誘惑を体験します。「うん、昨日よりはずっ
といい感じだね」とか「すぐ君はまたもとのようになるよ」とか「きっと乗り越えられるよ」といったよう
なことを言います。しかし、しばしば、私たちが口にすることは本当ではない、ということを私たちは知っ
ていて、友人たちもまたそれを知っています。
無責任な関わり合いをする必要はありません。「ぼくは君の友だちだ。君と一緒にいられて嬉しい」とそ
れだけは言えます。言葉や、触れること、あるいは愛情のこもった沈黙で、それを語ることが出来ます。時
には「しゃべらなくてもいい。ただ目を閉じて。私はあなたと一緒にここにいる。あなたのことを思い、あ
なたのために祈っている。そしてあなたを愛している」と言うのもよいことです。
(ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)