「嗣業」エレミヤ12:7-17、2016年3月6日(日)船越教会礼拝説教
・イエスは、山上の説教の「(衣食住のことで)思い悩むな」という教えの中で、このように語ったと言わ
れています。「何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えら
れる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だ
けで十分である」(マタイ6:33,34)。有名なイエスの言葉ですから、みなさんもご存知だと思います。イ
エスはここで「神の国」と共に「神の義」を何よりもまず求めなさいと語っているのであります。
・キリスト者である私たちの中でも、このイエスの言葉に忠実に生きているかと言えば、衣食住としての生
活や健康のことを思い悩むことが多いのではないでしょうか。今日は、「何よりもまず神の義を求めなさい」
とイエスが語られたこの「神の義」に思いを寄せたいと思います。と申しますのは、先ほど読んでいただい
たエレミヤ書12章7~17節で語られていることも、その中心には「神の義」ということがあるからであります。
・<詩編98篇9節に「主は義をもって世界をさばき」(口語訳)と述べられています。また詩編45編7節に
「あなたは義を愛し、悪を憎む」(口語訳)と歌われているように、確かに聖書の義なる神は悪を憎み、不
義を罰する神であります。しかしこの事は神の義が本来、審判と強く結びつくことを意味するのではありま
せん。神の義はむしろその義を犯されがちな弱い者、貧しい者の保護に向かう傾向を強く持っています。こ
うした場合、圧迫された弱者、貧者の側から見れば、神の義こそは彼ら・彼女らにとってその権利の保障で
あり、救いの希望であります。このようにして義を意味する原語(ツェデーク、ツェダカー)は恵み、助け、
救いの意味をも含みます。この傾向はイスラエル自身被圧迫者の地位に置かれ、神の義にのみ望みを置かざ
るを得なくなったエレミヤの時より目だち始め、(捕囚期の預言者)第二イザヤにおいて決定的となります。
第二イザヤでは少数の例外を除き、義は恵み、救いとほとんど同義語と言えます(特にイザヤ51:5,54:17)。
こうして神の義の理解は旧約の随所に見られますが、特に詩編にはその美しい表現が多いのです(52:14,
31:1他)(以上『新聖書大辞典』より)。
・「何よりもまず神の義を求めなさい」というイエスの呼びかけに対して、私たちはその呼びかけに応えて
生きているでしょうか。このイエスの呼びかけに応えて生きるということは、<圧迫された弱者、貧者の側
から見れば、神の義こそは彼ら・彼女らにとってその権利の保障であり、救いの希望である>とすれば、圧
迫されて人権を踏みにじられている人々、弱者、貧しい者の解放への叫びに応えて生きるということになる
のではないでしょうか。
・この神の義が歴史の中で実現成就していくとすれば、歴史はどのように導かれていくのでしょうか。エレ
ミヤ書の今日の箇所には、その展望のイメージが描かれているように思われるのであります。
・今日のエレミヤ書の前半(12:7-13)には、「神の嘆き」が描かれていると思われます。それはイスラエル
に与えられた嗣業の地が荒廃していしまっているからです。東京電力福島第一原発事故によって人が立ち入
ることのできなくなった地域のことを思い浮かべたときに、大地を創造し、そこに人が住むことを許された
神にとって、そのだれも住めなくなった大地を見て、神は嘆いているのではないでしょうか。それと同じよ
うに、外国の略奪者によって荒廃したイスラエルの民に神が与えられた嗣業を見て、神は嘆いているのであ
ります。
・<多くの牧者がわたしのぶどう畑を滅ぼし/わたしの所有地を踏みにじった。/わたしの喜びとする所有
地を/打ち捨てられた荒れ野とし/それぞれ打ち捨てられてわたしの前にある。/大地はすべて打ち捨てら
れ/心にかける者もない>(12:10,11)と。
・<この神の嘆きは、おそらく、エジプトに対するネブカドネザルの軍事遠征(前601/2年)との関連
で、ユダに種々の近隣諸民族が略奪の侵入を果たしたことと関連しているであろうと言われています。この
軍事遠征については列王記下24章2節が報告しており、バビロニア人、アラム人、アンモン人の侵略部隊の
ことが語られています。このことは、エレミヤ書12章12節にみられる、<荒れ野の裸の山に略奪する者が来
る>との記事に合致するであろう。これはまだ決定的な破局を意味するものではありませんでした。—―決
定的破局は前597年になって訪れたのです。第一回バビロニア捕囚です—―。とはいえ、それは、長きに亘る
平和な時代の後に起こった、想像だにし得なかった決定的破局の序曲でありました。そして、事実、国土の
かなりの部分が荒らされたのであります。北からの敵の進軍についてもっと別の想像をしていたであろう
エレミヤが、この事態に不意をつかれ、ユダの近隣諸民族のこのような略奪侵入に憤ったとしても、何ら不
思議ではありません。そして、このようにしてエレミヤ自身が感受したことが、この神の嘆きの中に響鳴し
ているのであります。>(ATDp.292より)。
・このような神の嘆きに続いて、14節、15節ではこのように言われているのであります。<主は言われる。
「わたしが、わたしの民イスラエルに継がせた嗣業に手を触れる近隣の悪い民をすべて、彼らの地から抜き
捨てる。また、ユダの家をかれらの間から抜き取る。私は彼らを抜き取った後、再び彼らを憐れみ、そのひ
とりひとりをその嗣業に、その土地に帰らせる>と。ユダの地に荒廃をもたらした近隣の諸民族に対して、
イスラエルの嗣業を奪う民を、すべての地から抜き捨てると言われ、ユダの家は一度抜き取ったが再び土
地に帰すというのです。しかし、もしも、かつてイスラエルの民にバアルによって誓うことを教えた近隣
の民が、<わが名によって、『主は生きておられる』と誓うことを確かに学ぶならば、彼らはわたしの民の
間に建てる>(16節)しかし<もし彼らが従わなければ、わたしはその民を必ず抜き捨てて、滅ぼす」と
主は言われる>(17節)というのです。
・これはどういうことなのかと言うと、第二イザヤにも現れている信仰ですが、神は捕囚の民イスラエルを
裁くことによって救済し、その救済に他の民も裁かれることによって加わって、全世界の救済が完成すると
いう将来に対する展望です。これはモーセを通してエジプトから脱出したイスラエルの民がシナイ契約を結
びますが、このシナイ契約の下に全世界の人々も連なることによって、神の義が遂行されるという信仰にも
通じるものではないかと思われます。これはそういう意味で、過去を顧み、将来を展望している預言といえ
るでしょう。
・先程、<「何よりもまず神の義を求めなさい」というイエスの呼びかけに応えて生きるということは、
<圧迫された弱者、貧者の側から見れば、神の義こそは彼ら・彼女らにとってその権利の保障であり、救い
の希望である>とすれば、圧迫されて人権を踏みにじられている人々、弱者、貧しい者の解放への叫びに応
えて生きるということになるのではないでしょうか>と言いました。今日のエレミヤ書の預言は、<わが名
によって「主は生きておられる」と誓うことを学ぶならば、他の諸民族もバール崇拝を悔改めたイスラエル
の民と共に神の嗣業の地に生きることができる>というのです。このエレミヤ書の預言を、イエスの出来事
を通して現代的に解釈すれば、抑圧されて人権を踏みにじられている人々の権利の保障が実現し、そのよう
に社会的に弱く小さくされている人々と共にすべての人々が仕え合い、支え合って生きる社会の到来が、神
の義が実現成就し嗣業の地にイスラエルの民も他の諸民族の人々も、<わが名によって「主は生きておられ
る」と誓って共に生きることではないでしょうか。私にはそのように思えるのであります。
・<「もし彼らが従わなければ、わたしはその民を必ず抜き捨て、滅ぼす」と主は言われる>(17節)と言
われています。神の義に逆らうものは必ず抜き捨て、滅ぼされるといのです。今日神の義の実現成就をはば
んでいる力は、何よりも資本と資本の言いなりになっている国家権力ではないでしょうか。そしてその資本
と国家権力に隷属して、それを許している人々と言ってよいでしょう。私たちもその一人と言えるかもしれ
ません。
・先日教区総会でいただいた神奈川教区の部落差別問題小委員会だより第30号に、大船教会の松下道成牧師
が「二つの世界」と題して、このように書いています。少し長くなりますが、紹介させていただきます。<
人は何事につけても二つの世界に生きている。人は、日々必要なこと、有益で利用できることだけが世界を
形成しているのではなく、何が善であり何が本当に尊いのかということが世界を形成していることを知って
いる。あるいは、社会に健全な秩序と調和と平和を与ええるのは、「力」ではなく、「神の義」なのである
ということも知っている。本来、人はだれでもそれらを知っているし、願い求めている。しかし、人間はや
はり、空腹と暴力が猛威をふるう目に見える世界の中で生きている。物質的な必要や不足、また病気が人の
精神的自由を奪い、人の傲慢と悪が弱者を作り出し、差別、支配する。いつも、何が善であるかという問題
は、何が役に立つのかとう問題に圧倒され、正義は力をもってしか成し遂げられないと錯覚して、善よりも
利益を得た人間の方が成功していると思っている。しかしその世界で、キリストの福音を受け入れ、その真
理を唯一の指針として従い歩むならば、その人は確かに、パウロ的に言うならば、肉に生きるのではなく霊
に生きている。パウロは「四方から苦しめられる世界、途方に暮れる世界」に生きると同時に、不安も絶望
もない見えない世界にも生きている。そしてこの見えざる世界から、パウロは、目に見える世界の苦難に打
ち勝つ力を得ている。それは日々の困難や不自由の中でも、私たちに出来ることであり、その者はあらゆ
る困難と苦しみにあって、神を思い、他者を大切にする心を、互に愛をもって接し合い、他人の権利を守
り、たとえ意見の相違があってもこれを忍耐をもって耐え忍ぶことを求め続ける。そしてこの目に見える
世界で、必ず目に見えない世界と共に生きていける>。
・「何よりもまず神の義を求めなさい」というイエスの招きに応えて生きるとは、神の義の実現成就の確か
さを信じて、まさにそのように生きることではないでしょうか。