なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(83)

  「新しい契約」 エレミヤ31:31-34  2018年1月28日(日)船越教会礼拝説教
         

預言者の中でもエレミヤは、捕囚時代の第二イザヤと共に、彼らをめぐる歴史社会の中で民族の問題、

「神の民」としてのイスラエルの共同体の問題を、自分の苦悩として、捨て身で負い抜こうとする強烈な

連帯意識に生きた預言者と言われています。エレミヤは単に個人の幸、不幸を問題としたのではありませ

ん。世界の歴史のただ中での同胞全体の問題に焦点を当てたのです。イスラエルの民は神に選ばれた民と

して、諸民族、すべての人間の祝福の基に定められていると信じていたからです。そのエレミヤが約40年

という長い預言活動の晩年に到達したのが、今司会者に読んでいただいたエレミヤ書31章31-34節に記さ

れています「新しい契約」という預言であります。


・このような「新しい契約」という預言に至るまでのエレミヤについて、もう一度振り返っておきたいと

思います。エレミヤはイスラエルの民を繰り返し「わが民」と呼んでいます。そういう風に同胞であるイ

スラエルの民を呼ぶことによって、エレミヤは、彼自身もその一員として、イスラエルの民としての悩

み、苦しみを、共に負っているのです。


・当時の南王国ユダは、すでに共同体としての前途は暗澹たるものでありました。エルサレム神殿の破壊

と第二回のバビロン捕囚によって、国は滅亡し、民は分断され、一人一人が自分のことを追求して他人の

ことはあまり考えず、自分の利益中心に生きるという傾向の中で、契約共同体としてのイスラエルの民が

持っていた連帯意識が薄れていました。そのような中で、エレミヤは同胞であるイスラエルの民との連帯

意識を強くもっていました。分裂の中でなお民の仲間として呼び出す神が、かれの神だったからです。で

すから、エレミヤの民との連帯意識は、具合のよいときの協同ではなく、むしろ民の悩み、苦しみを率先

して負うという意識でした。


・このように、民の中にその心情の深底において入り込んでいますエレミヤは、矛盾した言い方になりま

すが、預言者でありながら一面神と対立せざるを得ませんでした。人間エレミヤは、民と一番深いところ

で運命を共にするのですが、彼の信ずる神は決して単なる民の利益代表のような好い加減なご利益的存在

ではありません。そういうものからかけ離れてご自身の独自の思いと行動をもつ絶対他者としての神で

す。


・彼はそのような神と真正面から対し、魂を注ぎだして切実な叫びをあげます。彼は自分の全部をひっさ

げて神に訴え、迫っていきます。彼の祈りはそういうものでした。


・彼は自分から預言者になったのではありません。むしろ神に引っ張り出され、自分の意志に反して預言

者とされたのです。今まで何度も触れましたように、エレミヤは、義なる神の、不義なる民への猛烈なさ

ばきのことばを語らざるを得ませんでした。彼は民にとっても、自分にとっても嫌な存在でありました。

だが、聞きたくないときにこそ一番人の思いを超えた、絶対に公正な神の声を聞くべきなのです。


・当然、彼は愛する同胞に嫌われ、排斥されました。その結果孤独に陥りました。しかし、その孤独は、

本当に連帯性を求め、信じ抜こうとしたあげくの孤独でした。彼はそのような孤独を味わった人です。エ

レミヤは、このおそるべき孤独という死の苦しみの中で、自分の全部をぶつける相手を本当に知らされま

した。この相手が彼の神ヤハウエだったのです。


・既にこのエレミヤ書の説教でも扱いましたが、エレミヤ書には告白録と呼ばれる部分があります。そこ

にはエレミヤの預言者としての内面が吐露されています。その中には復讐の祈りとよばれるものすらあり

ます。(エレミヤ書11:20,15:15-17,17:12-18)。彼の激しい感受性は、ここで民への復讐を神に求め、

ついには神をさえ自分を欺いて預言者としたのではないかと疑うのです。だがしかし、神と民への彼のこ

のような激情は、結局彼自身に帰ってきます。民への復讐は、同時に自分もその民の一員であるがゆえ

に、自らへの癒し難い痛みたらざるをえませんでした。


・彼は、「わたしを迫害する者に恥をかかせてください。わたしをはずかしめないでください」(17:8)と

祈りつつ、実は自分自身が神の前に恥を負うことを実感したのです(10:24)。民がエレミヤを辱めたと

き、実は民が神の前に恥を負ったのであり、エレミヤが民の恥を祈るとき、実はエレミヤ自身が恥を負っ

ているのです。このような深いところでの民との連帯意識が、エレミヤのことばの、そして存在全体の奥

底にありました。


・神と戦い、民と対立し、そして自己と戦い、神によって自己を突き破られて神に立ち帰る。そこではじ

めて神のことばを自らの痛みに耐えつつ、民にそしてその一員たる自らに語る。これが預言者エレミヤの

姿だったのです。


・このような激しい神との対決のただ中で、彼は神の真実と、人の心の奥にある偽り(16:19)を骨身に沁

みて知らされるのです。彼においては、人の不真実、罪の自覚が特別の深さをもって把握されればされる

だけ、神の確かさが明らかとなります。


・神は、彼においては、罪と失意のどん底からはじめて仰ぎ得る方でした。彼を呪う民を彼自ら呪って、

民と共に虚無のどん底に下ったとき、エレミヤははじめて真に神を仰ぎ得たのです。そこでは人間にまつ

わりつく虚飾や気張りはすべて取り去られ、切羽詰った赤裸々な姿のみがあるのです。


・神は神ご自身の確かさのゆえに確かである。神の確かさがわかることは、自己がどん底に下って頼るべ

き確かさの自己にないことを知らされることとひとつなのです。彼は破れの中でただ真実一筋に神の道を

仰ぎます。神の前に立たされ、彼は一介の人として神のことばを聞き、そのつど精一杯従おうとします。

ここでこそ彼は、本当に友を愛し、友をつくるものとして、民と連帯意識にまでもう一度導かれていった

のです。


・苦悩の預言者エレミヤは、最後に新しい契約のよろこびの預言を語ったといいます。その預言が先ほど

司会者に読んでいただきましたエレミヤ書31章31-34節なのです。エレミヤは、全体としてみたと

きに終末の希望といったものを語ってはいません。このように未来に夢を持ち得なかった彼が、民族の絶

望のただ中で、「新しい契約」に最終的に到達したことは注目に値します。


・それは、もはや単なる民族共同体の回復の希望の預言ではありません。自らの偽りを打ち破られ、罪を

赦されて、真実をあくまで貫く神に今一度従って歩む道を与えられた新しい真実な人間の群れの誕生への

希望であります。ご存知のように、エレミヤは捕囚の民イスラエルエルサレム帰還による、「神の民」

イスラエルの再建への希望も語っております。30章の3節に<見よ、わたしの民、イスラエルとユダの繁

栄を回復する日が来る、と主は言われる。主は言われる。わたしは、彼らを先祖に与えた国土に連れ戻

し、これを所有させる>と言われている通りです。しかし、この「新しい契約」の預言は、そのような

「神の民」、イスラエルとユダの繁栄の回復を超えています。石の板2枚に記された、神がかく生きよ、

そうすれば祝福を得るという十戒という定めが、律法としてイスラエルの民には与えられていますが、捕

囚以前と捕囚以後において、イスラエル民自身が人間として何も変わっていなければ、また同じことをく

り返すことになるのではないか。もしかしたら、エレミヤはこの事実に気づき、神に向かってそのことを

訴え、問うたのかも知れません。そのエレミヤの神との格闘の結果、この新しい契約の預言を与えられた

のかも知れません。


・<来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わた

しの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心の中にそれを記す。その時、人々は隣人どうし、兄弟どうし、

「主を知れ」と言って、教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからであ

る、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない>(33,34節)。


・そして、エレミヤ自身がその新しい真実な人間の群れである新しい契約共同体の一端を担う者として、

歴史的世界のただ中に立つことがきたのです。そこにおいて、現実の破れの中でなお新しい、神の真実に

貫かれた共同体を現実のものたらしめる歴史形成の責任を勇気を持って負う実存が自覚されるのです。


・マーティン・ルサー・キング二世の「私には夢がある」という有名な言葉があります。エレミヤは自ら

がその一員であるイスラエルの民のどん底のような状態の中で、自らが喜んで命をかけることのできる

「新しい契約」の夢を見出しました。エレミヤにとって「新しい契約」は将来の希望ですが、新約聖書

この「新しい契約」がイエスの十字架の死と共にはじまることを告げています。イエスの最後の晩餐の記

事の中で、イエスの言葉として、<この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契

約である>(ルカ22:20)と記されているからです。新しい契約による共同体、それが教会なのです。パ

ウロもこのように語っています。<神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕え

る資格を与えてくださいました。文字は人を殺し、霊は生かします>(競灰3:6)。また、パウロは<

キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造されたものなのです>(5:17)と語り、<罪と何のかか

わりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得る

ことができたのです>(同5:21)。


・私たちは、今日このときに、不真実と虚偽のゆえに裁かれるべき、私たちもその一員である現在の人間

集団のただ中にあって、エレミヤの新しい契約に見出される、真実な人間の群れとしての新しい契約共同

体としての教会を信じることができるでしょうか。そしてその一員として私たちもその新しい契約共同体

の一端に加えられていることを。いたずらに現在の状況を嘆くのではなく、キリストと結ばれて新しく創

造された己をもって、このような状況を生み出している人間の罪の根源に迫り、新しい契約共同体を現実

化する歴史形成の責任を、エレミヤと共に勇気をもって負っていきたいと、切に願います。