なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(349)

       船越通信、癸械苅后   。横娃隠固2月4日   北村慈郎


・1月28日の日曜日も礼拝後差し入れのお菓子をいただきながら、しばらく懇談し散会しました。この

日は午後6時から29日(月)午後4時まで、「性差別問題全国会議2018in横浜」が日本大通りの横

浜情報センター会議室であり、私も出席することになっていました。実は連れ合いがこの会議で事務局の

仕事と発題を予定していましたので、26日の金曜日にこの会議に出席できるかどうか医者に行き、インフ

ルエンザの検査をしたところ陽性ということで29日までは自宅で安静にしなければならなくなってしまい

ました。当日の集会に必要な書類等を私が預かり、印刷物も用意して、28日午後4時過ぎに船越教会を出

て、会場に向かいました。私も22日の月曜日から26日の金曜日まで風邪で寝込んでいましたので、少し体

力が心配でしたが、会議には最後まで参加できました。この会議を主催した日本基督教団性差別問題全国

連絡会は、2002年の教団総会で教団の委員会であったのが潰されて、その後自主的に活動しています。今

回は「国家と教会―性・基地・戦争―」というテーマでした。私自身安倍政権による戦争のできる国家主

義的な国造りが進められている現状にあって、国家にどう対峙できるかという課題の緊急性を感じていま

すが、天皇制の構造を内に抱えている教会は国家に対峙することはできないという主旨の発言もでた中

で、私は二人の発題者の発言から二つのこと心に止めました。一つは、韓国の日本軍慰安婦支援を長く中

心的に担ったTさんが、発題の中で「マイノリティーこそ国家に対峙できる」と言われたことです。もう

一つは、インフルエンザで不参加の連れ合いは、国会前での辺野古新基地建設反対の座り込みの経験を発

題しました。その発題を八木かおりさんが朗読してくれましたが、その発題の最後の言葉です。「国会前

に参加している何人かの方の話を聞いていると国に対峙するという事は一人一人がしっかりと自分の足で

立つことに極まるような気がします」。この全国集会では、各教区の取り組みの報告もありました。全体

で50名弱の参加者でしたが、「性差別問題」というこの全国会議の共通項が明確であるということもある

と思いますが、主体がかかった当事者としての発言が多く、緊張感をもって会議に参加することができま

した。会議は29日14:30で終わりましたが、オプションで参加者の希望者を寿に案内しました。20名強の

希望者でしたが、3組に分かれて寿の街を案内し、その後なか伝で寿日雇労働者組合の近藤昇さんに20分

くらいの話をしてもらって、散会しました。その後私は鶴巻に帰りました。


・昨年暮れからお正月にかけて集中して取り組んだ戦責告白50年を覚える神奈川教区集会(2017年11月23

日開催)の報告集の原稿づくり(テープお越し)は、講演者の一色哲さんに送った当日の講演のテープ越

しの原稿を修正していただくと、ほぼ準備はできることになっていました。1月10日頃一色さんに原稿は

送ってあり、できれば1月末までに修正して送り返してくださいとお願いしていましたところ、1月29日に

一色さんからの修正原稿が届きました。これで2月24日の教区総会までに報告集は完成できそうです。


・1日(木)は、国会前の辺野古新基地反対の座り込みの日ですが、連れ合いが別に用事があって、私が

行くことになりました。この日は夕方から雨が降り、夜になると雪に変わるという天気予報でしたので、

国会前の座り込みは午後4時には終わるので、それまでは雨も降らないのではと思って、午前11時少し前

に鶴巻のマンションを出て、国会前に向かいました。代々木八幡駅で一度下車して、昼食をすませ、代々

八幡駅から地下鉄で国会議事堂前駅まで行きました。代々木八幡駅で地下鉄を待っていたときに、雨粒

が少し落ちてきていましたが、国会前の何時もの座り込みの場所まで行きました。午後1時よりも少し早

かったので、まだ誰も来ていませんでした。道路を挟んだ向かいの国会議事堂側の建物の玄関で雨宿りし

て、誰か来るのを待ちました。午後1時頃いつも来ておられる二人の方が見えたので、私もその場所に行

き、今日はどうするか相談しました。二人はこの雨ではむずかしいので、今日は中止しましょうというの

で、私は国会前まで行って直ぐに戻って、鶴巻に帰ってきました。4日には名護市市長選があり、シュワ

ブゲート前での抗議行動には厳しい弾圧が加わっているようですし、基地建設工事は強引に進められてい

ます。金と暴力で沖縄の方々の思いを踏みにじろうとしている現政権に怒りを覚えます。


・2日(金)は朝7時には鶴巻を出て、寿に向かいました。この日は寿ボランティア交流会で三森さんか

ら私も出席して挨拶をするように言われていました。私が寿に着いたのが8時半過ぎでしたが、もうすで

に炊き出しの野菜切りなどの準備が始まっていました。寿公園でも小雨の中野菜洗いの作業が行われてい

ましたが、生活館の2階で野菜切りの作業が行われているというので、私はそこに行き、カブの葉や白菜

を切る作業に加わりました。作業は10人ぐらいで行っていましたが、なかなか葉っぱがなくなりません。

この切り刻んだ葉っぱは雑炊の具になるのですが、切り刻んだ葉っぱの大きさによっては、大きすぎると

雑炊を食べた時に、場合によっては喉につかえてしまうことがあるというので、葉っぱは相当細かくしな

ければなりません。何とか作業を終えたのが10時半過ぎになってしまいました。ボランティア交流会の参

加者は、朝の炊き出しの準備からの人と午後1時の配食の時の人と二組に分かれていて、その中間に両者

が集まって交流会を持つということになっています。午前11時から午後0時半過ぎまでなか伝で寿の街に

ついてプロジェクターを使って、寿に関わっている行政の方からお話を伺いました。戦後GHQの支援物資

が横浜に集中し、そのため港湾労働者が横浜に集まってきた時から現在の寿の街になるまでの寿の街の歴

史について、分かり易い話をしてくださいました。また、現在の寿の街には、様々な地域で生活できなく

なり、ある面でそれまで住んでいた地域から追い出された人びとが、寿の街なら受け入れてもらえるとい

うことで寿の住人になっているケースも多くなっていること。いろいろな事情で本来ならば路上の人にな

らざるを得ない人が、寿があるために寿の住人になって、路上の人にならないですんでいるという現実が

あること。もし寿がなければ、横浜市の路上生活者はもっと多くなるに違いないと。