なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(345)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(245)復刻版を掲載します。2006年5月のものです。

 今日はこれから東京地裁に行きます。難民申請をしているアフリカの方の裁判の傍聴です。


       黙想と祈りの夕べ通信(345[-32]2006・5.7発行)復刻版


 4月30日の礼拝説教でマタイによる福音書の1章1-17節を扱いました。私はこれから日曜日の礼拝

説教はマタイによる福音書を順次扱っていくつもりです。この箇所はイエス系図が書かれている

ところです。よく新約聖書を読み始めて、最初の系図で躓いてしまい、読むのを放棄してしまった

という話を聞きます。私が読んだ聖書の解説をしている注解書にも、このマタイの系図を説教の

テキストにする人は殆どいないと書いてありました。そうだろうと思います。

さて系図(家系)にこだわる人がたまにいます。系図というのは、そうとう由緒ある家系でない

と、その信憑性は疑わしい場合が多いようです。私の知っている方で名古屋の人ですが、晩年自分

系図に興味関心を持つようになり、二度にわたって3人の息子家族と系図を辿る旅をした方がい

ます。四国の瀬戸内海側でしたが、その結果自分の先祖は瀬戸内海で海賊のようなことをしていた

何とか水軍の頭だということが分かったと、喜んで話してくれました。中には自分の先祖は士族だ

と、誇らしげに言う方に出会ったこともあります。逆に周りの人はその人の立派な先祖のことを気

にしていますが、本人はそういうことに触れられるのが嫌いな人もいます。人間って、いろいろで

すね。

 私自身は、以前山室軍平という人の聖書の解説を読んでいたときに、人間は20代、30代と先祖を

ずっと遡ればみんな兄弟姉妹だと書いてあり、本当にそうだと思いました。ですから自分のも他の

人のも系図にはあまり興味関心はありません。ただ系図があるということは、その人が具体的な人

間であると言う身分証明にはなります。超人でもエイリアンでもキャラクターでもなく、ただの人

だということです。イエスもただの人でした。私たちと全く変わらないただの人です。ただの人で

すが、イエスにはどんなときにも神が共にいるのです。神が共にいるただの人として、イエスは生

涯を歩まれました。そこがイエスの魅力ではないかと密かに私は思っています。なぜなら、私たち

人間は余りにも自己中ですし、自分の作為が勝ちすぎているように思えますので、神に自分を委ね

て生きる幼な児のようなイエスに惹かれるのです。

 5月3日(水)の祈祷会でKさんが司会とお話をしてくださいました。Kさんのお話は、私なりに聞

いて私の言葉でひとことで言えば、神のみ心は人間を選別排除することは決してないということで

した。出席者は皆感動してKさんのお話を聞きました。そのお話の中にお連れ合いのMさんの中学時

代の友人の話がありました。Kさんの今息子さんたちが住んでいる保土ヶ谷の家のトイレが故障し

たので、修理をする人を連れていったそうです。その人と話していてお互いの電話の番号が044

-533-・・・・と同じだったので、近所であることが分かり、工事する人からKさんは昔から

川崎に住んでいると思われて、同じ公立中学校出身ですかと尋ねられたというのです。話を聞いて

確かめてみると、Mさんが出た中学校で、しかもその工事の人がMさんの同級生であることが分かっ

たそうです。たまたまその時Mさんも後から保土ヶ谷の家に来ることになっていたので、KさんはM

さんをびっくりさせてやろうとして、狭いトイレの中で工事をしているYさんに予告無しに突然会

わせたそうです。・・・Mさんは今は成人している二人の子どもたちが中学生になるときに、自分もそ

うだったように、いろいろな子どもたちが来る公立中学に入れたい言って、Kさんも同意してそう

したと言います。私学の中学は、私も関東学院の三春台出身ですが、選別された子どもが来るとこ

ろです。私たちの教会はどうだろうかという問いを含んだKさんのお話を聞いて、いろいろ考えさ

せられました。