なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(43)

      「解放と追放」マタイ8:28-34、2019年7月14日(日)船越教会礼拝説教


・今日は、マタイによる福音書8章28節以下の、「悪霊に取りつかれたガダラの人をいやす」イエスの物

語から、語りかけを聞きたいと思います。


・新共同訳聖書には、今申し上げたこのマタイの箇所の表題の横に、この同じ物語の、マルコによる福音

書とルカによる福音書で出てくる並行記事の箇所が記されています。


・ここでそのマルコとルカの並行記事を読むとよくわかるのですが、興味ある方は後で読み比べてみてく

ださい。三つの福音書の中ではマタイによる福音書の記事が最も簡潔に記されています。


・節の数を見ても、マルコは20節(5:1-20)、ルカは14節(8:26-39)、マタイは7節(8:28-34)ですか

ら、マタイの記事がいかに簡潔になっているかがわかると思います。


・マルコもルカも、イエスによって悪霊を追い出された人物の描写が細々(こまごま)」となされていま

すが、マタイでは、人物の描写よりも悪霊とイエスとのやり取りの方が中心に描かれています。


・しかもマルコとルカでは、レギオンと言われる具体的な一人の人物が登場していますが、マタイでは

「悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。二人は非常に狂暴で、だれ

もその辺りの道を通れないほどであった」と言われているだけです。


・つまり、マタイでは「悪霊に取りつかれた者は二人」なのです。マルコもルカもレギオンと言われる一

人の人しか、この物語には登場していないのに、マタイでは、何故二人なのでしょうか。実はマタイで

は、この二人は、悪霊を追放する奇跡的な力をもったイエスの証人の役割をしているのです。一人では証

人になりませんので、マタイはここに二人を登場させたのです。


申命記には、「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されること

はない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない」と言われていて、証人

には最低二人が必要とされていたからです。


・このことからも分かりますように、マタイはこの物語において悪霊を追放する奇跡的な力をもつイエス

の働きに焦点を当てて描いているのです。


・悪霊に取りつかれた二人は、イエスが・・・ガダラの地方に着かれると、「墓場から出てイエスのところ

にやってきた」(28節)と言われています。この言い方ですと、二人の方からイエスに近づいたように

なっています。


・この二人は「非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった」(28節)と言われていま

すから、二人の方がイエスの一行を脅してやろうというので、やってきたという風にも読めます。


・ところが、二人がイエスに出会うと、彼らの方から突然叫んで、「神の子、かまわないでくれ(放って

おいてくれ)。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか」と言ったというのです。


・自分たちの方からイエスを脅してやろうと来たのに、彼らの方がイエスに怖れを感じて、自分たちと関

わりをもたないでくれと、イエスを遠ざけようとしたというのです。


・イエスが悪霊を追放する方であるということを知っていた悪霊たちは、近くにいた豚の群れを見て、自

分たちを「追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と願ったというのです。


・イエスが「行け」と言われると、「悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れはみ

な崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ」(32節)というのです。


・イエスによって、二人を支配していた悪霊が、二人から出て行き、豚の群れに入って崖から湖になだれ

込み、水の中で死んでしまったということは、この二人は悪霊の支配から解放されたわけです。


・悪霊を解放されたこの二人がどうなったかについては、マタイは一切触れていません。


・マルコをみますと、悪霊を追放した後、「イエスが舟に乗ろうとすると、悪霊につかれていた人が彼と

共にいたいと願い出た。しかしイエスは許さないで、彼に言う、『あなたの家、あなたの縁者たちの所に

行きなさい。そして主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなに憐れんでくださったか、

それを知らせなさい』。そこで、彼は立ち去り、そして自分にイエスがして下さったことを、ことごとく

デカポリスの地方に宣教し出したので、人々は驚いた」(マルコ5:18-20)とあります。ルカもほとんど同

じです。


・マタイは悪霊を追放したイエスに焦点を当てています。そして豚飼いの通報で知った「ガダラの町中の

者がイエスに会おうとしてやってきて、イエスを見ると、この地方から出て行ってもらいたいと言った」

というのです。そこでこの物語は終わっています。


・無教会の塚本虎二さんは、この悪霊追放の物語を、マルコ版に基づいてですが、自分の自叙伝だと言っ

ています。


・少し長くなりますが、塚本さんの語る言葉を聞いてみたいと思います。


・「私は、私自身がこのゲラサの狂人であることを知ったときに、そして、主イエスからちょうどこの狂

人のようにしてレギオンの悪鬼(悪霊を悪鬼と塚本さんは訳しているのです)を追い出されたときに、私は

この話を自叙伝のごとくに感じ始めたのである。

 私はかつてイエスに接するまでは、この狂人のように自分の中にレギオンの悪鬼をもっていた。

 私は、二重人格,三重人格、五重人格、しかりN重人格であった。

 ある時は憂鬱になって墓の中に隠れた。温かい家庭も親しい友も交わりもそれは冷たい陰惨なる墓にす

ぎなかった。

 しかし、たちまちにして発作が起こったときには、狂える豚のように私は暴れ回った。道徳の足枷、良

心の鎖も、私を縛ることはできなかった。ただ、私がこの豚のように湖に飛び込まなかったのは、かすか

ながら私に残っていた人間的自覚のゆえにすぎなかった。

 その時私に巣食っていた悪鬼どもがもし全然自制力なき動物に入ったなら、それはまさに、豚二千匹を

狂死せしめるだけの驚くべき力をもつものであったことを私は認める。

 一日(ひとひ)、私はナザレのイエスにあった。私は、彼が私の敵であることをただちに知った。私は

狂気のように彼に向かって突撃を試みた。

 しかし、私は彼の威力に打たれて、彼の足元に倒れた。そして私の中のレギオンの悪鬼が出て行って、

私は初めて正気となった。

 本当に聖書の中のどの話がこれ以上に私を突き動かし、また私を慰めるか。

 私はらい病人のような、百卒長のような信仰をもたなかった。私はキリストを 憎み、彼を打ち倒さん

とさえ試みた。ゲラサの狂人以上に、私のありし日を如実に描きだせる人物は聖書 中のどこにあろう

か。

 篤信の(信仰深い)百卒長の話が福音書の中から消え失せることによっては、私の希望は動揺しないと

しても、もしゲラサの豚が消え失せるならば、それは私の救いに関する大問題である。

 私にとりては、この話こそ最もなくてならぬものである。私の救いの最後の網であるからである。これ

を失うことは、福音書中の最も尊きものを失うことである。

 しかし、我らのだれがはたしてゲラサの狂人でないか、だれが自分の中に、二千匹の豚を狂死せしめる

だけの悪鬼のレギオンを飼っていないか。

 しかし、感謝なるかな、感謝なるかな。神の子イエスはゲラサの狂人を救われた。彼は我々を救うため

にここまで降りられたのである。ゲラサの狂人が救いに漏れぬならば、だれが神の子の救いの網から漏れ

落ちることがあろう」。


・塚本虎二さんは、「二千匹の豚を狂死せしめるだけの」悪霊に憑りつかれた人と、イエスに出会う前の

自分は同じだったと言うのです。


・マタイでは、悪霊に憑りつかれた「二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであっ

た」と言われていますから、悪霊に憑りつかれた者が他者に対して暴力的であったことが分かります。


・塚本さんは、自分はイエスに出会う前は、他者に対しても、自分自身に対しても暴力的な悪霊という非

人間的な力=狂暴に支配されていた人間であったと言うのです。


・「我らのだれがはたしてゲラサの狂人でないか、だれが自分の中に、二千匹の豚を狂死せしめるだけの

悪鬼のレギオンを飼っていないか」と問いかけています。「自分だけではなく、私たちすべてはそういう

悪霊に憑りつかれた人間ではないか」と言っているのです。


・イエスは、この聖書に出て来る悪霊に憑りつかれた人から悪霊を追放して、その人を悪霊の支配から解

放ししてくださったように、私たちも悪霊の支配から解放してくださった。そのことがイエスの福音の真

骨頂ではないか、と塚本さん言っているのです。


・私たちが生きています現実の世界では、何が支配的な力なのかに自覚的であることは大切ではないかと

思います。経済優先と損得勘定を第一義とする人が多く、それに付け込んで安倍政権による国家主義・軍

国主義・ファシズム(山口泉)が台頭しているかに思われます。そういう中で、沖縄や福島の人たちが犠

牲になっている現状があります。


・そういう現代日本の状況の中で、この悪霊追放の物語を読みますと、イエスの解放は、福音によって自

立した人間として、他者と共に生きる道ですから、イエスを信じる私たちは、犠牲を強いられている沖縄

や福島の人たちを見棄ててはなりません。


・けれども、共に生きたいと願いながら、共に生きれていない私たちの現実をも誤魔化さず、そのことを

踏まえて、そこを一歩でも乗り越えて共に生きていく道を、祈りつつ求めていかなければなりません。


・しかし、私たちはイエスの解放の自由が重荷になることがあります。この悪霊追放の物語の中で、イエ

スが悪霊に憑かれた人から悪霊を追放して解放したことを伝え聞いた町中の者の態度が、そのことを物

語っています。34節に「すると、町中の者がイエスに会おうとしてやって来た。そして、イエスを見る

と、その地方から出て行ってもらいたいと言った」(34節)と言うのです。


・イエスの解放の出来事には、イエスの追放の出来事も伴うということは、今も変わらないのではないで

しょうか。


・このイエスの解放が完全に実現成就する終末の時まで、私たちは解放と追放の狭間でイエスの背中を見

ながら歩み続けていかなければなりませんし、そうしていきたいと願います。。


・それにしても塚本虎二さんが、この悪霊追放のイエスの物語を自分の自叙伝だと言ったことは、感銘深

く思われます。私たちもこのイエスの物語を私たち自身の自叙伝として読むことができれば幸いに思いま

す。