なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(1)

       「始まり」 マタイ1:1-17、2017年7月9日(日)船越教会礼拝説教

・毎月の第2日曜日の礼拝説教では、今までガラテヤの信徒への手紙をテキストにして説教をしてきまし

た。6月の第2日曜日でガラテヤの信徒への手紙が終わりましたので、これから第2日曜日の説教はマタイ

による福音書をテキストにしたいと思います。8月、9月は夏季休暇で2回日曜日お休みをいただきますの

で、10月からはエレミヤ書をテキストに2回か3回(5週の時は3回)、マタイ福音書をテキストに2回説教を

するようにしたいと思っています。

・さて今日の説教題は、予告では「イエス系図」としましたが、「始まり」という説教題にかえさせて

いただきました。新共同訳聖書ではこの部分の表題が「イエス・キリスト系図」となっていますし、1

章1節の訳も《アブラハムの子ダヴィデの子、イエス・キリスト系図》となっています。しかしこの

系図」と訳された原文は、ビブロス・ゲネセオースという言葉で、素直に訳しますと田川健三さんの訳

のように「創世(生成)の書」となります。「マタイ1;1によれば、イエス・キリストによって、全世界

史的歴史の新しい時代が始まる」(フランケメーレ、釈義事典286頁)と言われていますので、説教題

を「始まり」にしました。マタイ福音書の著者によれば、この福音書を書いたのは、イエス・キリスト

よって始まった全世界史的歴史の新しい時代がどういうものであるかを、この福音書を読む読者に知らせ

たかったからなのです。

・私たちは世界史という出来事を考える時に、或は私たちが毎日生活しています日常的な世界は、人間と

人間の関係が織り成す世界であります。残念ながら、今も人が人を傷つけ合ったり、殺し合ったりする悲

しい現実を、私たち人間は克服していません。その中には個々人が背負わなければならない重荷があり、

それぞれその重荷を背負いながら必死に生きています。また、民族や国家間の葛藤の歴史、権力を持つ者

と権力を持たない者との支配抑圧の歴史、封建的な社会から民主的な社会への変容の歴史、解放の歴史、

産業革命と科学技術の進歩による物質文明の支配とそこからの解放というような、いろいろな見方ができ

ます。しかし、そこで私たちが考えている世界史的歴史を生きている私たち自身は何者なのでしょうか。

・ところで、そのようにマタイ福音書の著者が、イエス・キリストによって始まった全世界史的歴史の新

しい時代について記そうとして、先ず1章2節以下で、このところは「イエス系図」と言ってよいと思い

ますが、なぜ「イエス系図」を記したのでしょうか。新約聖書を読んでみようかと読み始めて、この1

章2節以下のイエス系図のところで躓いてしまい、読むのを諦めたという人が案外多くいるようです。

実際この系図から何が読み取れるのか。はじめて読んだ人にはチンプンカンプンでしょう。注解書の中に

は、「今日なおも、このテキストについて説教がなされることは殆どないといことは、偶発的なことでは

ない」と言っているものもあるくらいです。長く信仰生活を送っている方の中にも、このイエス系図

どんな意味があるのか、分からないでいる人も多いのではないでしょうか。かく言う私自身、注解書をひ

もどかなければ、この系図の意味を読み取ることはできませんでした。

福音書の著者「マタイ」がこの系図で語ろうとしていることは、マタイによる福音書の表題とも思える

1章1節が明らかにしてくれています。1章1節は「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの創世の

書」とあります。

・イエスが「ダビデの子」であるということは、ダビデイスラエルの民の尊敬する王様でしたから、マ

タイはイエスを王の血統として捉えていることを示しています。「イエスイスラエルの王メシアとし

て、連綿と続くイスラエルの歴史の中に置かれているのであ」ります。イエスイスラエルの王メシアと

して際立たされているのです。

・2節以下の系図をご覧になっていただきますと、6節に「エッサイはダビデ王をもうけた」とあり、そこ

ダビデが登場していますが、わざわざダビデだけ「ダビデ王」と呼ばれているのです。ダビデが王とし

て引き立てられているのです。この系図に出てくるほかの人物は名前だけです。

・マタイによる福音書では、2章1節以下のイエスの降誕物語として有名な東方の博士来訪の物語がありま

すが、この東方の博士来訪の物語は明らかに王ヘロデに代わるユダヤ人の王としてのイエスの誕生物語に

なっています。

・また、マタイによる福音書では21章5節で、イエスは「柔和な」王としてエルサレムに入城します。

・イエスは王なのです。こうしてマタイは、彼の福音書の一つの重要な主題を序論としてこの系図で示し

ているのです。イエスイスラエルの王メシアであると。

・マタイは1章1節で、イエスを「ダビデの子」と共に「アブラハムの子」でもあると記しています。ルカ

による福音書のイエス系図は、ご存知の方も多いと思いますが、アブラハムからさらに遡ってアダムか

ら神にまで至ります。ルカの描くイエスはそういう意味でユダヤ人ですが、その系図ではユダヤ人の枠を

はるかに越えて全人類にまで広がっています。それに対して「アブラハムの子」によって、イエスはユダ

ヤ人であるという当たり前のことだけが語られているのでしょうか。系図の中にでてくる四人の女はみん

ユダヤ人ではなく非ユダヤ人です。タマルはアラムの女、ルツはモアブの女、ラハブはカナン人の町エ

リコの住民です。ベテシバについては名前が挙げられておらず、「ウリヤの妻」となっています(6

節)。ウリヤはヘテ人でありました(サム下11:3)。「こうして系図ユダヤ人の枠組みを越えてすべて

の人々につながる一つの世界主義的な響きを内に秘めているのです。そのことによって、イスラエルのメ

シアなる、ダビデの子が、救いを異邦人にもたらすということが、ひそかに暗示されている」と言われて

います。ユダヤ教にはアブラハムユダヤ教への改宗者の父とみなす広く伝えられている伝承があるそう

です。ですから、イエスは「アブラハムの子」であるということは、マタイでは神がイエスを通して全異

邦人世界にも、すなわち全世界に語りかけようとすることを意味しているのです。

・さて、マタイのイエス系図は、系図としては厳密に辿られたものではなく、虚構以外の何ものでもな

いと思われます。しかし、マタイがイエスの物語を系図ではじめたということには、深い意味があるはず

です。それは何と言っても、イエスの身分証明でもありますが、同時「イエスは人間の姿形を持った者、

歴史社会の中で生きる体を持った私たちと同じ具体的な人間である」ということを意味します。人間とし

系図をもっているということは、歴史上の人物であることを意味するわけです。超人でも単なるキャラ

クターでもありません。具体的な人間です。

山室軍平の説教だったと思いますが、私たちは現在さまざまな民族に分かれ、国家に分かれています

が、何十代も系図を遡っていけば、みんな親族なんだということを語っていました。系図は私たちが血の

つながりをもった一人であることを明らかにしているのです。

・マタイによる福音書は、マルコによる福音書に倣って、神の子である人間イエスの物語なのです。なぜ

マタイは使徒信条のような信仰告白条文ではなく、イエスを神の子ではありますが、一人の人間イエス

物語として福音書をまとめたのでしょうか。そこには福音書記者マタイの信仰理解が表されていると言え

るでしょう。

・それは信仰は教えである以上に、イエスの物語において理解されるということです。イエスの物語は、

マタイによる福音書に描かれた聖書という書物の中の物語ですが、それは同時に現代の私たちの生活の中

でのイエスの物語でもあります。

・イエスが2000年前のローマ支配のユダヤで生涯を送り、そこで家族を持ち、多くの人々と出会い、

晩年弟子たちを従えて福音書に記されているような活動をして、最後は十字架刑によって殺されて死んで

いった。そして不思議にも三日目に復活して、弟子たちをはじめ多くの人々の中に今も生きて働いている

という信仰を目覚めさせた。

・そのようなイエスの物語において示されている信仰は、私たちが毎日の中でいかに神に導かれて歩んで

いるかということと深く関わります。

政教分離以来、信仰は人間の私的内面的な領域に閉じこめられて、政治経済の影響をもろに受ける市民

生活では一市民として公的に生活する。その結果、信仰は日曜日の礼拝のときに、ウイークデイはこの世

のしきたりで生活するという二元論がキリスト者を支配するようになっています。

・イエスの物語はそうではありません。日々の生活の中で、多くの人との出会いの中で、人々の働きの中

で、インマヌエルの神、「神われらと共にいましたもう」という信仰を体験、経験するのです。

・そういう神信仰であれば、私たちが日々どう生きていくのかということは、信仰の本質的な問題です。

日々の生活の中での信仰告白、これがイエスの物語が私たちに語っている信仰とは何かという問いかけと

それに対する答えではないでしょうか。

・マタイによる福音書を通して、私が講壇を引き受ける時にはこれからどのくらいかかるか分かりません

が、インマヌエルの神と共にイエスがどのように生きられたのか、そのイエスの物語を読み進んでいき、

マタイのイエスの物語が私たちに語りかけているメッセージに耳を傾けていきたいと思います。

・今日はイエス系図を通して、何よりも、イエスが、私たちと同じように血のつながりの中で生まれた

ひとりの人間としてこの世の中を生きられたこと。このマタイ福音書のイエスの物語は、単に過去の物語

ではなく、今も私たちがこの時代と社会の中で、イエスと共にインマヌエル(神われらとともに)という

日常を生きることが許されていることへの招きであるということを、まず確認して、これから少しずつ、

マタイ福音書のイエスの物語を読み進んでいきたいと思います。