なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(44)「真理と偽り」ヨハネ8:39-47

1月7(日)降誕節第2主日礼拝   

 

注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。 

 (ヨハネ3:16)

③ 讃 美 歌  431(喜ばしい声ひびかせ)

https://www.youtube.com/watch?v=bfyE1g5XUJY

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編36編6-10節(讃美歌交読文39頁)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書8章39-47節(新約182頁)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌   371(このこどもたちが)

https://www.youtube.com/watch?v=6svD3STZB7w

⑨ 説  教   「真理と偽り」       北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

今日は新年の最初の日曜日ですが、ヨハネによる福音書8章39節から47節の箇所から語りかけを聞きたいと思います。この個所は、ヨハネによる福音書の8章31節から始まっているイエスユダヤ人たちの議論の後半部分になります。前回前半部分を扱いましたが、その説教題を「真理と自由」としました。今日の後半部分の説教題は「真理と偽り」としました。真理であるイエスと偽りであるユダヤ人たち、これが、イエスユダヤ人たちの議論の後半部分で明らかになっていると思われるからです。

 

この後半部分のイエスユダヤ人たちとの議論から、教えられる第一のことは、ユダヤ人たちの自己義認ということです。ここでユダヤ人たちは、39節で<彼らは答えて、「わたしたちの父はアブラハムです」と言うと>と言われていますように、自分たちは生まれながらのアブラハムの子孫であるということを誇っています。まるで、そのことが、彼らの偽りと過ちというすべての欠点をおおうにちがいないというように、「わたしたちの父はアブラハムです」と、ユダヤ人たちは言っているのです。そのようなユダヤ人に対して、イエスは、<「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。あなたたちは、自分の父と同じ業をしている」>と言われます。ここでイエスが、<あなたたちは、自分の父と同じ業をしている>と言われた「自分の父」とは、「悪魔」を指しています(43節)。それに対して、ユダヤ人たちは、<「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です」>(41節)と言っています。自分たちは神の特別な愛顧の対象であり、神の子である、と主張しているのです。ユダヤ人たちは、自分たちがアブラハムの子孫であるという血のつながりによって、そのような自己義認に立っていたのです。彼らは、アブラハムの信仰によって受けていた神の祝福と恵みにあずからなければ、アブラハムとの肉的つながりは役に立たないのだ、ということを気づきませんでした。その父祖アブラハムの信仰の足跡をたどらないならば、神がその父祖を愛顧の対象である民のかしらに選ばれたことは、子孫に救いがもたらされることを決して意味するものではありません。彼らはひどい自己欺瞞によって、これらすべてのことを悟ることを拒んだのです。「私たちはユダヤ人である。神の子である。まことの神の民である。神の契約のうちにいる。私たちは万全であるに相違ない」これが、彼らの議論の全部なのです。

 

ライルは、<奇妙なことに思われるかもしれないが、クリスチャンと呼ばれているおびただしい人々で、これらのユダヤ人とそっくりの人々がいるのである>と言って、このように記しています。<彼らの信仰全体を構成しているのは、主の敵たちが言いたてた事柄より、少しも賢くなくましでもない二、三の観念なのである。彼らはあなたに言うであろう。「私たちは教会の正規会員である。洗礼を受けている。主の食卓に連なっている」と。しかし、彼らはそれ以上のことをあなたに語れないのである。福音における欠くべからざる教理のすべてについて、彼らは全く無知なのである。信仰について、また恵みについて、また悔改め、きよさ、霊的思いについて、彼らは何も知っていないのである。しかも、彼らは教会員であり、それゆえ天国に行けると期待している。このような状況にある無数の人々がいるのである。悲しむべきことに聞こえるかもしれないが、残念ながら、これは全く本当すぎるほど本当のことなのである>と。ライルは歴史的批判的聖書研究が行われるようになった前の時代の人ですから、世俗化が進む前のヨーロッパのキリスト教世界の時代のクリスチャンについて述べていますので、現代の教会のクリスチャンにはあてはまらないかもしれません。でも私たちの中にもその危険性があることは事実です。アブラハムの子孫であるとか、キリスト教徒や教会員であるということが、それ自身が私たちを解放へと導くのではないということを知らなければなりません。生きた信仰によってイエスご自身に結ばれていなければ、イエスが言われる「真理はあなたがたを自由にする」という自由を生きることはできないのです。

 

そのことは、今日の箇所でイエスがはっきりと指摘しているのであります。ユダヤ人たちが「私たちの父はアブラハムです」と言うならば、イエスは答えて、「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい」と言っています。ユダヤ人が「私たちにはひとりの父、神があります」と言うならば、イエスは答えて、「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです」と言っているのです。

 

私は、教会を「アブラハムのわざを行い」「イエスを愛する」者の集い、そういう人の共同体だと考えています。信仰告白と教憲教規を遵守することは、宗教集団としての日本基督教団にとっては大切なことかも知れませんが、私は信仰告白と教憲教規を遵守したからと言って、また、洗礼や聖餐を規則通りに行っているからと言って、イエスを愛する者の集いである教会が生まれるとは思えません。洗礼や聖餐において、私たちはイエスと結びつき、イエスの命に与かるのです。その意味で、信仰はイエスを愛することに尽きると思うのです。真理であるイエスは、私たちを自由にしてくれるからです。イエスを愛し、己の罪から自由にされた者として、自分を愛し、他者である隣人を愛する者として生きていくことができるからです。「イエスへの愛なきところに神の子たることはなし」です。

 

もう一つ、この個所から教えられるのは、「悪魔の実在とその性格」についてです。ここでイエスは、悪魔について、神話論的にではなく、実際に私たちを支配する偽りの力をして語っています。44節で<あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲情を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである>と、イエスユダヤ人たちに語っているのです。すなわち、彼らは、悪魔に導かれ、その意向を行い、残念ながら悪魔に似たものであることを現わしている、というのです。そして悪魔のことを、初めから「人殺し」であり、「偽り者」また偽りの父である、と言っているのです。

 

ライルは、悪魔についてこのように述べています。少し長くなりますが引用します。

<悪魔は存在するのである。いつも私たちのそばには、見えざる力ある敵がいるのである。彼はまどろむことも眠ることもない。私たちの道のかたわらにおり、ベットのかたわらにいる。私たちのすべての歩みをうかがい、死ぬまで決して私たちを離れないのである。彼は人殺しなのである。その大目標・大目的は、私たちを永遠に滅ぼし、私たちの魂を殺すことである。滅ぼすこと、永遠のいのちを奪い去ること、地獄で第二の死へと私たちを落とすこと。これらのことのために、悪魔は休むことなく働いているのである。彼はいつも歩き回り、食い尽くすべき者を捜し求めているのである。彼は偽り者なのである。ちょうど太初にエバを欺いたように、彼は偽りの陳述によっていつも私たちを欺こうとしているのである。彼はいつも私たちに告げて、善は悪であり、悪は善である、と言う。真理は偽りであり、偽りは真理である、と言う。広い道がよく、狭い道は悪い、と言うのである。富める者も貧しき者も、上流の人も下流の人も、教養ある人も無教養な人も、無数の人々が彼の欺きによってとりこにされて、彼に従うのである。偽りが彼の愛用の武器である。偽りによって、彼は多くの人々を切り殺すのである。

 

これらは恐るべき事柄である。しかし、本当なのである。私たちはこれらのことを信じる者として生活しよう。見えざるしかたで人を地獄へと導く実在者なる者が存在することをあざわらい、ばかにし、あざけって否定する多くの人々のようにならないようにしよう。悪魔が存在することを信じ、目を覚まして祈り、その誘惑に対して激しく戦おう。彼は強いだろうが、彼以上に強い方がおられるのである。その方はペテロに言われた。「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました」(ルカ22:32)と。そしてその方は、今も神の右にあってとりなしておられるのである。その方に私たちの魂をゆだねよう。悪魔のごとき存在がこの世を行き来しているのだから、悪が満ちているのを見て驚くには及ばないのである。しかし、キリストが私たちの味方でいらっしゃるのだから、私たちは恐れるにも及ばないのである。私たちの味方となってくださる方は、私たちに敵対する者よりも大いなる方であられる。こう記されている。「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」(ヤコブ4:7)。また、「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます」(ローマ16:20)。>(以上 ライル)

 

偽りと死へと私たちを誘う悪しき力が、私たちの中で働いていることを否定することはできません。イエスは、ここでその力を悪魔と呼んでいるのだと思われます。様々な犯罪だけでなく、国家の名によって他国の人々を殺し合う戦争も、差別や貧困を生みだす自己中心性も、偽りと死の力に支配されている人間が引き起こしている現実です。その点イエスの公生涯の初めに誘惑の記事があるのは意味深いと思います。マタイによる福音書の4章1節以下のイエスの誘惑の記事の最後には、<そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた>(マタイ4:11)と言われています。

 

エスを愛する者は、イエスと一体となって、悪魔の誘惑に打ち勝ったイエスと共に、悪魔の誘惑から自由に、神のみ心を実現する者として生きることができるのです。

 

お祈りいたします。

 

  • 神さま、今日は2024年の最初の日曜日です。この日の礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 新しい年の初めに能登半島地震が起き、羽田では飛行機事故がありました。ウクライナパレスチナでは戦争が続いています。気候変動による自然災害がこの時期にも世界の各地で起きています。殺人をはじめ、いろいろな犯罪も多発しています。皆が安心して生活できる状況が増々遠のいていくように思われます。
  • 神さま、どうか私たちを、平和をつくり出す者として生かしめてください。様々な危機を共に乗り越えていく力を、私たちにお与えください。
  • 今日の聖書に記されていますように、神さま、偽りと死への誘いから、私たちを守ってください。
  • ウクライナパレスチナに一刻も早く平和が訪れますように。また不当な支配の中で人権が無視されている国々に住んでいる人々の尊厳が回復しますように。貧困に苦しむ人々に救済の手が差し伸べられますように。また病や老いの中で心身の弱さの中で苦しむ人々にあなたの癒しと支えが与えられますように。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩ 讃 美 歌   514(美しい天と地の造り主)

https://www.youtube.com/watch?v=aueaSMfnUYY

⑪ 献  金 

⑫ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑰ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。