なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(45)「神を知る・知らない」ヨハネ8:48-59

1月21(日)降誕節第4主日礼拝   

 

注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。 

 (ヨハネ3:16)

③ 讃 美 歌   204(よろこびの日よ)

https://www.youtube.com/watch?v=1lSZeXpQr54

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編19編1-7節(讃美歌交読文20頁)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書8章48-59節(新約183頁)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌    449(千歳の岩よ)

https://www.youtube.com/watch?v=xj_skK7rias

⑨ 説  教   「神を知る・知らない」       北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

ヨハネによる福音書8章は、姦淫の女の記事(8:1-11)の後、12節から最後まで、イエスユダヤ人たちとの論争が記されています。今日の48―59節は、その最後の段落になります。論争は、最後に近づくほど、その激しさを増してゆきます。

 

48節で、ユダヤ人たちは、イエスを、「悪霊に取りつかれている」者と言い、また「サマリヤ人」と呼びます。イエスが悪霊にとりつかれているとは、既にユダヤ人の群衆が7章20節で言っています。<群衆が答えた。「あなたは悪霊に取りつかれている」…>と。「サマリヤ人」は、御存じのようにユダヤ人が蔑視していた人たちです。そのサマリヤ人の女の人とイエスの出会いの物語がヨハネ福音書4章に記されていて、イエスは旅の途中でサマリヤ人の土地にある井戸のそばで休まれ、そこに水を汲みに来たサマリヤ人の女を避けることなく会話をしているのです。

 

ユダヤ人たちの考えによれば、自分たちのことを、イエスのように、「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている」(44節)などと言うのは、サマリヤ人か悪霊にとりつかれた者ばかりであると言うのです。本当のユダヤ人なら、決してアブラハムの子孫を悪魔の子の群れなどとは言わない、と。しかしながら、イエスは、ユダヤ人たちを、彼らがイエスの父である神を知っていて、その神と一つであるとは思えなかったのでしょう。むしろ彼らの心は、イエス自身に対してそうであるように、殺害や虚偽の思いでいっぱいになっていて、彼らが神を自分たちの父と呼ぶことは、神を冒涜し、神を傷つけることだとイエスは思って、彼らを、「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている」(44節)と言ったに違いありません。

 

このイエスユダヤ人たちとの根本的な違いによる対立は、私たちキリスト者もそれぞれの属する国や社会の中で経験してきたことであり、中には今でも経験していることではないでしょうか。特に政教分離が徹底されていない時代や社会の中にあるキリスト者は、日本でも「お前は耶蘇か」と言われ、時には暴力を受けて殉教することもありました。関田先生は戦時中牧師の子であるということで、友達からいじめられたことを、生前語っていました。キリスト者についての悪いうわさが流され、その行ないについて、偽りの話が念入りに作り上げられ、うのみにされてきたのであります。

 

現代でもそのようなことが起こらないと言う保証はありません。香港で民主化を求める人々が中国政府によって排除されたようなことが、キリスト者である私たちにも絶対に起こらないとは言えません。人がこの世に仕え、広き道を歩いている限りは、彼に敵することはほとんど語られないでしょう。しかし、世の多くの人々とは違うイエスの真実を求めて生きていこうとする者には、非難し、抹殺するこの世の力が襲いかかるということがあり得るのです。イエスは、ユダヤ人たちからのそのような仕打ちに耐えて、神のみ心に従って、神と一つになって十字架の極みまで歩み続けたのだと思います。そのイエスの生きざまによって、イエスは、彼を貶めようとしたユダヤ人たちにも、神に命与えあれた人間が人間らしく生きることにできる福音を語っただと思います。

 

その福音の言葉が、イエスを「悪霊に取りつかれている」と言い、「サマリヤ人」と言ったユダヤ人たちへのイエスの返答の中で、イエスによって語られています。それは「よくよく言っておく、もし人がわたしの言葉を守るならば、その人はいつまでも死を見ることがないであろう」(51節、口語訳)という言葉です。

 

このイエスの言葉について、シュラッターはこのように述べています。<これこそ、御父がイエスのために確実に備えられる、イエスの栄光にほかならない。イエスは、割引なしに隠さず、悔改めと裁きの言葉をユダヤ人に向け、彼らが自称する神の子やアブラハムの子、真理・自由といったもの、すべての自己欺瞞を打ち砕いて、彼らに人間の口が語りうる最も恐ろしことを告げられた、それにもかかわらず、否、それゆえにこそ、さらにそれを越えてユダヤ人に、完全な福音を宣べ伝えられるのである。悪魔が人間を自己の悪しき霊で満たし、死に追いやるところのこの世界に、〔かえって〕いのちが現われ、そしてそのいのちがイエスの言葉を守る者の所有となる。これこそ、イエスが求めている栄誉である。イエスが信ずる者たちを、滅ぼし殺す死から完全に解放することができるよう、その栄誉は御父のもとでしっかりと守られているのである(6:50参照)>と。

 

しかし、そのような言葉も、ユダヤ人たちには通じません。彼らは、イエスの言葉に一層いきり立って、「あなたは、わたしたちの父アブラハムより偉いのだろうか。彼も死に、預言者たちも死んだではないか。あなたは、いったい、自分をだれと思っているのか」(53節)と言います。

                      

エスのゆえに人が死ななくなるなどと公言するのを、ユダヤ人は、まともに聞くこともできず、かといって聞き流すこともできませんでした。彼らにはこのイエスの言葉は、余りにも傲慢な言葉に思えたのです。アブラハム預言者もみな死んでしまったのだから、誰かが決して死ぬことがないなど、彼らには全く不可能に思えました。ユダヤ人たちは、目の前にあることだけを見ていました。それに対してイエスは、人間がここでいつまでも生きるのか、それとも堕落し、滅びるのかという、人間の人格的本質の中に起こることをのみ見つめていたのです。イエスが与えるこのような約束の偉大さを、ユダヤ人たちは承認しようとしませんでした。もしそうならこの人は、アブラハムよりも、預言者たちよりも偉大だということになるからです。そんなことはありえない! アブラハムより大きいということはゆるされないはずだ、とユダヤ人たちは考えたのです。

 

それに対してイエスは、私はユダヤ人たちの知らぬ父なる神を知り、またその御言葉を守っている者だと語られた上で、「あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ」(56節)と言われます。すなわち、アブラハムは、この私において神の救いの歴史が完成する、その日を見ることを楽しみにしていたし、また今も天にあって、それを見て喜んでいると、言われます。

 

<おそらくイエスはここで、かつてアブラハムにその地上の生の間、預言者的洞察から与えられた、アブラハムの予見のことを考えているのであろう。あるいはイエスは、アブラハムが天上の場所で、地上においてその民に起こることにあずかる、その在り方について語っているのであろう。いずれにせよイエスは、御自身の栄光がアブラハムにとって、最も明るい祝福の基礎となったことを確信する。イエスは、「モーセは自分の味方であって、聖書を信じないゆえイエスを非難しているそのイスラエルを告発する」ことを確信したと同じように(5:46,47)、堕落し、悪魔にしばられたアブラハムの子ら〔イスラエル〕だけが、自分に反対するので、アブラハム自身は、かえってイエスの業を喜んでいることを確信しておられたのです>。

 

ところがユダヤ人たちは、この言葉を、またもや誤解して、「あなたはまだ五十にもならないのに、アブラハムを見たのか」(57節)などと言います。それに対してイエスは、<イエスは「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」(58節)と言われます。ここには「わたしはある」(エゴー・エイミ)という言葉が記されています。すなわち、イエスの神的存在を告げる言葉です。彼はここで、御自身が、アブラハムと対比されるべき存在ではなく、絶対的存在だということを、告げているのです。

                          

このようなイエスの永遠性の自覚は、父なる神との一致・交わりに対応しています。神的なものは、永遠であります。しかし、イエスにあっては、神的なものは、人格的に自己の所有となった本質的なものなのです。そのことはただ単にイエスの「自己」に、外から付け加えられたものではありません。むしろ、イエス自身を形成しており、〔ほかならぬ〕イエス自身なのです。それゆえ、イエスは、ただ単に御自身の業や言葉について、<御父がそれを自分に与えた>と述べるにとどまりません。イエスは今、この時間の中を生き、地上的なものの制限の中に閉じ込められているとはいえ、御自身の自己と永遠性とを、制限なしに結びつけるのであります。「私は、あらゆる時の以前にも、あらゆる時の以後にも存在する」と。この永遠性の自覚から、さらに、<自らいにしえの神の使者や奉仕者たちと完全に一体の交わりの中にある>との確信が、流れ出ています。したがってイエスはまた、御自分自身についても、すでに前にユダヤ人について語ったと同じように、究極的な言葉を語られました。イエスユダヤ人たちとの間の対立が、今、完全に明らかになったのです。ユダヤ人は、悪魔のとりこになっているのにひきかえ、イエスは、御自分を永遠であると言えるほどこのように深い完全な意味において、父なる神と結び付いているのです。

                   

それを聞いたユダヤ人たちは、石を取って、イエスに投げつけようとします。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれます。それが8章全体の終わりとなっています。

                    

ユダヤ人は、自分たちの考えからすれば神を冒涜するものでしかない、このような言葉に対し、即座にイエスを処罰しようとした。しかし、イエスは、神の守護によって守られ、何の害も受けずに神殿から出てゆかれた、こうして、光とやみの格闘、闇が光を追い出すこのような暴力的な戦いは、終わってしまった。ここに真の神との交わりが、「宗教」の空虚な外見と衝突した。この外見だけの宗教は、神の御国よりも悪魔の奉仕の方が気に入っていたため、頑強に自己主張したのである(シュラッター)。

 

このイエスユダヤ人たちとの論争には、私たち人間が、イエスのように神に仕えるか、ユダヤ人たちのように悪魔(世)に仕えるかの二者択一を迫られていることが語られていると思います。私たちは、ユダヤ人たちのようにはなりたくないと思いますが、かといってイエスと全く同じようになることはできません。そこで中途半場な自分を抱えていることを思わざるを得ません。けれどもイエスとの関係を手放さないで、自分の生涯をかけて、少しずつでもイエスに近づいていきたいと願います。

 

そのような私たちの歩みを主が支えてくださいますように!

 

お祈りいたします。

 

  • 神さま、今日も礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 新しい年も20日が過ぎました。現在私たちが生活しているこの社会は、皆が安心して生活できる状況が増々遠のいていくように思われます。そのような中で、神さま、どうか私たちが、少しでもイエスの心を自らの心として生きていくことができますように、お導きください。貧しい者、しいたげられている者を思いやり、病者を見てはいやそうとし、人のあらゆる窮乏を助けようとされた主にふさわしい僕とならせてください。
  • ウクライナパレスチナに一刻も早く平和が訪れますように。また不当な支配の中で人権が無視されている国々に住んでいる人々の尊厳が回復しますように。貧困に苦しむ人々に救済の手が差し伸べられますように。また病や老いの中で心身の弱さの中で苦しむ人々にあなたの癒しと支えが与えられますように。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩ 讃 美 歌   227(主の真理は)

https://www.youtube.com/watch?v=IMXvr7jCZIg

⑪ 献  金 

⑫ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑰ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。