なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(117、復刻版)

        黙想と祈りの夕べ通信復刻版(117[-12]2001・12・23発行)

 今日の礼拝では洗礼式がありました。洗礼をうけられたIさんが、クリスマス礼拝(12月23日)にはどうしても出席できないので、この日に洗礼式を行いました。礼拝前に臨時役員会を開き、Iさんの試問会を開き、役員会として兄弟の洗礼志願を承認しました。その時に、Iさんから洗礼を受ける決意に至った過程のお話をお聞きしました。

 Iさんは中・高生時代の倫理の授業でキリスト教に興味を覚え、学生YMCAにも関わり、30年前に当教会員のお連れ合いと結婚され、近くの教会にも出席したそうですが、ずっと頭でキリスト教を理解しようとしてきたように思う、と言われました。いろんな本も読んできた。けれども、3年ほど前に約1年くらい妻が病気で療養し、最初は気張って看護しなければと思ってやってきたが、現実は意気込みだけではどうにもならないところがあり、ある時、ふっと肩から力が抜ける経験をした。そのとき、自然と神にすがる思いになれた。その後この教会の礼拝に出るようになって、北村牧師が説教の中で時々言われる、「幼な児のように」ということが、自分の経験に通じるように思えた。以上がIさんが、洗礼の決心について語ってくれたことです。

 私は、Iさんの「肩から力が抜ける」経験に、一つの転機があったのではないかと思いました。それは、ヨハネの手紙一、4章10節の「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を贖ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛がある」と言われていることのように思えました。わたしたちがどうこうということではなく、神からの恵みの光に身を委ねるとでも言いましょうか。生かされて生きている自分の発見といったらよいかも知れません。Iさんの信仰告白から、信仰とは何かについて、改めて基本的なことを教えられたように思いました。

 以上の私の発言に続いて、一人の姉妹が以下のような発言をしました。

 昨日Kさんの一周年の記念会があり、そこに出席されたKさんの高校時代の同級生の方が、写真を持って来られた。その写真の中にKさんと共に、私の父も写っていた。二人は同級生であることがはじめて分かった。父は、小さい頃日曜学校には通ったが、洗礼を受けてクリスチャンになろうとは思っていなかったと思う。大学を出て、仕事で小樽に行き、そこでT・K牧師から洗礼を受け、同志社の神学部に入り、牧師になった。Kさんも、若い時はクリスチャンになるということは考えなかったと思うが、お連れ合いと結婚して信仰に導かれた。今日の礼拝で、Iさんの洗礼式、Rちゃんの新生児祝福の祈りに、すべてが神の導きの中にあることを実感した。そして、この神の導きに委ねて人生を送ることを、改めて思わされた。自分で立つことも大切だが、生かされて生きる者の喜びを生きていきたいと、強く思わされた。

 また、別の姉妹は、今日の礼拝で洗礼式があったが、私はいつも洗礼者に、おめでとうございます、と挨拶するようにしている。16年前に従姉妹が洗礼をうけたときに、その教会では出席者全員が握手をして、祝福してくれた。そのことが忘れられないので、洗礼者に挨拶するようにしている。14日には、親族の法事に行って来た。以前にはいろいろなことがあり、その法事に出られなかったこともあったが、今は心穏やかに出ることができ、一人残った姪を支えていけると感じた。自分には信仰があって、今の平安と感謝を持てることを心から喜んでいる。

         
        「福音は貧しい人々に」(『ルターによる日々のみことば』より)

 「盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は 福音を聞かされている」(マタイ11:5)

 わたしたちは、たゆまず、キリストのみことばとみ国について思い、そのおとずれをあまねくひびかせなければなりません。キリストは、貧しくみじめな人々を、心もかだらも助けようと望まれ、キリストなしには全世界のあらゆる力と方法をもってしても、助けることはできない王であり、またそのようなみ国を持っておられるということです。キリストのように、らい病人をきよめ、盲人を見えるようにさせられた、熟練した医者は、これまでにありませんでした。それと同じく、貧しい人々に、このような福音を伝えることのできた説教者もありませんでした。キリストは、悲しみやつれ、おののく魂に、ご自分をさし示し、彼らを救い、彼らを慰め、以前には悲しみと絶望のうちに沈んでいたおののく魂を、喜びでみたすことのできるかただからです。

 キリストがわたしたちの罪のために支払いをされ、その苦しみにより、わたしたちを永遠の死からあがないだしてくださったこと、これこそ最大の喜ばしいニュースです。貧しい人々に福音を宣べ伝えるのは、キリストのみ国、キリストの宣教であり、それがキリストの目的です。偉人や聖人に、主はくることができません。なぜなら、彼らは罪人として数えられることを望まず、それゆえ、主の福音を必要としないからです。
                                 降誕節第三主日の説教