なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(118、復刻版)

 昨日、一昨日と箱根の自然に包まれてきました。雄大な山並みと木々の緑の豊かさはに圧倒されました。二日とも湿生花園を楽しみました。以下は、少し季節外れですが、黙想と祈りの夕べ通信(118、復刻版)を掲載します。   


      黙想と祈りの夕べ(通信復刻版118[-13]2001・12・30発行)

 20日(木)にKさんの病床洗礼式が、聖路加病院ホスピスで行われました。教会からはS執事、T執事の二人の役員と、私の連れ合いと私とで洗礼式に伺いました。Kさんは、半年前頃から肝臓癌で入院、自宅療養をしていましたが、今月の14日に自宅から神奈川区の病院に入院しました。私はご本人の希望でその日に病院に行き、お話を伺いました。

 Kさんは、自分の出自は浄土真宗の家で、親鸞は今でも尊敬している。けれども、お連れ合いと結婚して、クリスチャンの彼女のご両親の人となりや生活に触れて、キリスト教の信仰に惹かれるものを感じてきた。ただ中世の教会や十字軍のようなキリスト教や教会の歴史には疑問を覚え、今まで入信する決心になれなかった。しかし、今この病気を得て、出来ればこれからの一日一日を連れ合いのご両親のような信仰をもって生きていきたいので、洗礼を受けさせてもらえないかと。

 私は、Kさんの言葉を、彼の信仰告白と受けとめ、分かりました、と答えました。Kさんは、これから何を心がけたらよいか教えて欲しい、とおっしゃいました。私は、特ないが、言葉にならなくとも、自分の思いや願いを神に祈って、神がどう答えてくださるか分からないが、神との交流を大切にされるように。もし祈りの言葉をどうしても言うとすれば、主の祈りを祈られたらどうか、と申し上げました。Kさんは、19日に聖路加病院ホスピスに入られ、20日の病床洗礼ということになりました。ぜひKさんのことを覚えて祈って欲しいと、私はお願いしました(Kさんは25日早朝急変し召されました)。

 以上の私の発言に続いて、久しぶりに参加された姉妹から、以下のような発言がありました。

 去年の今頃、友人が自宅でホスピスを受け、1月中旬に召されて、一年を迎えようとしている。今日はクリスマス礼拝に出席できなかった。精神障がい者のグループの責任を持っていて、そのグループの集いに出たので。その集いは、家に閉じこもって、どこにも行かれない方が、気楽に来て、話ができればということで開かれている。常時1人か2~3人が来て、続いている。今日は家族会の方々を含め、30人くらい集まった。若い方々がギターをひいてくれたり、この人にあんなことができるのかと、教えられたり励まされたりした。その中にクリスチャンの方もいて、信じることは苦しいことばかりですよね、と問いかけられた。

 その集いから帰ったら、夫が教会のOさんからの預かり物だよ、と言って、エプロンを渡された。以前Oさんが作ってくれたエプロンがボロボロになっていたので、Oさんに頼もうとした矢先のことだった。感謝である。今教会の礼拝に来ることも、聖書を読むことも、祈ることも怠っている自分が、神さまが身近にいて、いつも助けて下さると感じながら、今ここまで歩いてこれたと思う。

 また、一人の兄弟が、クリスマスの出来事への想いを語られた。イエスはどのような人の所へ来たのか。ルカは貧しい馬小屋、マタイは東方の博士が宝物を捧げている。マルコには降誕の記事はない。そこに暗示的なものを感じる。恐らくイエスはナザレの一般庶民として生まれたろう。そのイエスの誕生そのものは、クリスマスとは無関係ではないか。キリスト教とは無縁であった私のためにもキリストは生まれた。自分はルオーの「郊外のキリスト」が好きだ(ビリジストン美術館)。無縁な子どもたちのところにキリストが現れた。ただイエスは自己正当化し、それに対して反省しない人を徹底的に批判する。そのことを自分も考えていかなければならないと感じている。

         
        「つまずく石」(『ルターによる日々のみことば』より)

 「わたしにつまずかない者は、さいわいである」  マタイ11:6

 そうです。ほんとうにさいわいです。なぜなら、大いなる喜びを見いだすべきこの王、このみことばが、かえって、全世界にとってつまずきの石であるからです。世は、神のめぐみにたよらず、自分のわざといさおしにたよるため、キリストの福音につまずき、いらだちます。更に、キリストがあまりにも貧しくみじめであるためにつまずきます。さらにまた、キリストが十字架を負い、ご自分がそれにかかられたように、主に従う者は自分の十字架をとって、誘惑と悩みの中を、主に従わなければならないとすすめられるので、つまずきます。世は、この点において、特に、嫌悪します。

 このようにして、愛する主キリストは、世のいたるところで、迷惑がらせる説教者となっておられます。しかし、それ以外では福音は決して福音でありえないのです。わたしたちの体験が教えているように、福音のメッセージは、低いものによってではなく、この世でもっとも力あもの、賢いもの、きよく信心深いものたちによって、つまずきとされています。ですから、まことに神のことばであるということを知り、それに信頼する人は、なんとさいわいでしょうか。彼らはいやされ、慰められ、あらゆるつまずきから守られるからです。
                              降誕節第3主日の説教