なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

牧師室から(4)

               牧師室から(4)

 この「牧師室から」は紅葉坂教会時代に教会の機関紙に毎月書いたものです。

 十一月六日に教区社会福祉小委員会主催の千葉館山の「かにた村」を訪ねる集いに参加しました。以前から一度訪ねたいと思っていた所でしたので、実際に「かにた村」に自分の身を置いて見て、私は胸に突き上げる重いものを感じました。ご存じの方も多いと思いますが、「かにた村」は婦人保護施設で、いわゆる「売春」で傷つけられた女性たちのためのコロニーです。一九六五年に開設し、現在は定員百名で、女性たちの中には高齢で介護が必要な方も多くなっているとのことでした。場所は旧海軍砲台跡地で小さな山です。山の頂上に慰霊碑が建っています。一九八五年八月十五日に、かつて自ら「従軍慰安婦」として南洋にいたことのあるひとりの女性が、自分の夢枕に南洋で死んでいった仲間の女性たちが立ち、彼女らの霊を慰めるために慰霊碑を建てて欲しいと訴え、それに応えて建てられたそうです。最初は檜の柱だったそうですが、そのことが放送などで取り上げられ、多くの人からカンパが寄せられて、翌年には現在の石碑になったということです。その石碑には「噫従軍慰安婦」と刻まれていました。その石碑の正面に位置する向こうの山の上では、多分自衛隊のレーダーだと思いますが、空に向かって回転しているのが目に入りました。私は、旧海軍砲台跡、「従軍慰安婦」の慰霊碑、自衛隊のレーダーと、頭の中で謎解きをするように自問自答していました。すると、一緒に行ったT牧師に声を掛けられ、彼も私と同じことを考えていたようでした。                    
                            (2003年11月)

 一月二十八日の午前二時頃に電話のベルが鳴りました。連れ合いが受話器をとり、栄聖仁会病院からと受話器を渡されましたが、私は眠りから醒めない状態で受話器の向こうの声を聞いていましたので、最初は何がなんだか分かりませんでした。その内M姉の臨終の知らせであることが分かり、すぐに伺うことを伝えて電話を切りました。遺体を教会に搬送するためにI装具店に連絡し、身支度を整えて教会を出て、タクシーを拾い病院に向かいました。午前三時頃には病院に着き、医師から老衰による死亡であることを知らされました。霊安室に下ろされていた姉妹の顔は化粧が施されていて、安らかに見えました。しばらくすると葬具店の車が到着し、姉妹の遺体を乗せて教会に帰りました。

 実は事情がありまして、姉妹は約五年前から私が身元引受人としていろいろな世話をいていました。その関係で、今までの私の牧師生活の中でも一人の牧会のために最も多くの時間を姉妹との関わりに使いました。多分五年前の最初の一年間には延べ百日以上姉妹のことで出かけたと思います。姉妹は夫の死にも葬儀にも立ち会うことができませんでした。この四年半は小規模な介護ホームと病院での生活でした。特に最後の二年半は心身の衰えに耐えながらの孤独な病床での生活でした。昨年のクリスマスごろヒムプレイヤーを持って行き、病室でクリスマスの讃美歌を一緒に歌ったときの嬉しそうな顔を忘れられません。  
                            (2003年12月) 

 先日週報コラム(二00三年十二月二十八日)にも書きましたが、教団はもっと伝道しなければいけないという考えが一部に強くなっています。昨年の教区総会の教区活動基本方策案の審議でも、来年度の教区の活動案を立てる宣教方策会議でも、そして教区常置委員会でもこの種の意見が一部から強く出されます。あたかも社会的な問題も教会の宣教の課題として取り組んでいる教会や信徒・教職が伝道を疎かにしていると言わんばかりにです。ここには教会の宣教に対する二元論があるように思われます。個人の魂の救済と教会の教勢の拡張を教会に託された伝道の使命とする考え方と、イエスの生涯によって明らかにされた人間の救済が社会的な差別や抑圧からの人間の全的な解放を含むとする宣教論です。後者の宣教論は自己目的化された教会自身をも批判の対象とする射程を持っています。極端に言えば、人間の全的解放のためになら自己目的化された組織・制度としての教会さえいらないということになるからです。前者の伝道論に立つ人は、この後者の宣教論がもつ教会批判に多分無意識に恐れを感じて教会擁護に走るのではないかと思われます。

 私は中途半端かもしれませんが、両者をつなぐ過渡期論者です。前者の伝道論に共感する人と共に後者の宣教論のめざす方向を共有したいと願って、教職として教会において自分に与えられた課題を担っていきたいと考えています。教会を再生産しつつ、教会を無化する働きです。                                  (2004年1月)

 先日Nさんが一昨年五月から約一年十ヶ月の病との共生から解き放たれて帰天しました。

 私は、一昨年七月にNさんを、入院していた市民病院に見舞い、Nさんから病状と今後の治療の方針に加えて、ご自身の死に対する構えのようなお話を伺いました。「肺癌(肺腺癌)で手遅れのようだが、医者に勧められて新しい薬による試験的な治療を受け入れました」と、Nさんは坦々と私に話をし、「家族の者には言えないが、最悪の事態も自分は考えている」という主旨のことを言われました。その時は、この人が肺癌で危ないかもしれないとは思えないほど元気で、帰りにはその病棟のエレベーターの所まで私を送ってくれました。Nさんが帰天されてから、お連れ合いのお話では、Nさんは治癒よりも痛みの緩和を第一に願ったそうです。最後は肝臓にも癌が転移していたそうですが、この一年十ヶ月の間いろいろな臓器の検査をして転移があればその部分の治療を次々に施すということはしなかったと。そんなNさんは、癌の宣告を受けた段階で自分の中では病と死を受容したのではないかと思われます。

 一方Nさんとは対照的に、自分は死ねないと、最後の最後まで大変強い生への執着を持ち続けて、あらゆる治療を試み、それでも癌を克服できずに壮絶な形で死を迎える方もいます。そういう人にも私は出会ったことがあります。

 どちらが良いかは人には言えませんが、病と死との向かい合い方について考えさせられました。                              (2004年2月)