なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

棕櫚の主日礼拝説教

  「不思議な愚かさ」汽灰螢鵐硲院В隠検檻横機2017年4月9日(日、棕櫚の主日)礼拝説教

・今日は棕櫚の主日で、今日から受難週に入ります。ヨハネによる福音書によりますと、この週の木曜日

の夕食(最後の晩餐)の時にイエスは弟子たちの足を洗いました(洗足の木曜日)。その夜、イスカリオ

テのユダの裏切りによってイエスは捕えられ、大祭司のもとに連行され審問されます。ペテロは大祭司の

庭に忍び込んで、様子を伺っていましたが、人々に「お前もあの男の弟子ではないか」と言われ、それを

3度否定してしまいました。「するとすぐ、鶏が鳴」き、イエスが「お前はわたしを3度知らないと言うだ

ろう」と予告したとおりになりました。金曜日の明け方、大祭司邸から総督ピラトの官邸にイエスは連れ

て行かれ、正午頃ピラトの審問を受けて、十字架につけられて、その日のうちに息を引き取り、墓に葬ら

れました。金曜日の日没近くです。ユダヤでは日没から日没までが一日ですから、イエスは金曜日が終わ

る日没近くに葬られ、その金曜日も一日と数え、金曜日の日没から土曜日の日没までが2日目、土曜日の

日没から日曜日が始まりますので、三日目の日曜日の早朝にイエスは復活したと、聖書では言われている

のです。三日目というのは、金曜日の日没近くから日曜日の早朝ということで、実質的には丸一日半でイ

エスは復活したということです。そういう受難週に今日から入りますので、この一週間は特に、主イエス

の受難と十字架について思いめぐらす時にしたいと思います。

・1977年4月から1995年3月までの18年間、私は名古屋の御器所教会の牧師をしていました。この御器所

会のメンバーに名古屋の金城学院大学で国文学を教えていた酒井秀夫さんという方がいました。この方は

戦前伊勢の皇學館でも教えていた方で、大変保守的な方ですが、牧師として赴任したまだ若造の私や家族

を親身になって支えてくださいました。私が御器所教会の牧師になって、4,5年後に召されましたが、こ

の方はクリスチャンの女性の人がつける十字架のネックレスを非常に嫌っていました。イエスの十字架と

いう出来事は、ローマ帝国による凄惨な処刑を意味します。福音書にも記されていますが、イエスは十字

架の横木を背負わされて、ゴルコダの丘まで歩かされて行きます。そこには、おそらく何人もの人が十字

架刑に処せられた杭が立っていたと思われます。その杭に横木に手首を縛られるか、釘を打ち込まれるか

して、縦の杭に縛り付けられて、通常息を引き取るまで晒しておかれる、大変酷い刑罰です。イエスの場

合は、わき腹を槍で突き刺されて、短時間のうちに息を引き取ったと思われます。そういう十字架を象徴

している十字のネックレスを、こともあろうにクリスチャンの女性が好んでつけるなどということは、S

さんにとっては全く考えられないことだったようです。

・今日のコリントの信徒への手紙第一、1章18節に「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなも

のですが、わたしたち救われる者には神の力です」とありますが、この「十字架」という言葉は、ギリ

シャ語ではスタウロスで、このスタウロスは、まず第一に、ローマの死刑執行の刑具(刑の道具)として

の杭である十字架を意味します。イエスはこの十字架につけられて殺されたのです。イエスの十字架につ

いては、このことが根本的な事実です。《十字架の言葉》は、そのイエスの十字架の出来事を福音として

宣教することを意味します(高橋敬基:新共同訳注解)。ですから、23節では《わたしたちは、十字架に

つけられたキリストを宣べ伝えています》と言われているのです。

・「十字架につけられたキリスト」を宣べ伝える宣教は、パウロの時代のユダヤ人にとっては「つまず

き」であり、非ユダヤ人(異邦人)にとっては「愚か」なことでした。しかし、《ユダヤ人であろうが、

(異邦人である)ギリシャ人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝え

ているのです》(23節b、24節)と、パウロは言っているのです。

・一般的には「つまずき」であり、「愚かなこと」であった「十字架につけられたキリスト」を「神の

力、神の知恵」として受け止めた「召された者」すなわちキリスト者とは、どのような人々だったので

しょうか。今日の箇所に続く、26節以下にそのことが明らかにされています。26節以下を読んでみたいと

思います。《兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵

のある者が多かったわけではなく、能力のある物や、家柄のよい者が多かったわけではありません。とこ

ろが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため世の無力

な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無きに等しい者、身分の卑し

い者や見下げられている者を選ばれたのです。それは誰一人、神の前で誇ることができないようにするた

めです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の

知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためで

す》(26~31節)。

・「十字架につけられたキリスト」を宣べ伝えるパウロの宣教によって、「召された者」つまりキリスト

者になった人の多くは、「無学な者」、「無力な者」、「世の無きに等しい者、身分の卑しい者や見下げ

られている者」であるというのです。つまりこの世で小さくされた人びと、貧しい人々です。この世的に

パウロ自身は、決して小さくされて人でも、貧しい人でもありませんでした。彼はユダヤ人としてはエ

リートの一人でした。しかし、パウロ自身この世的に誇ることのできた自分の身分を、《しかし、わたし

にとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかり

か、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみなして

います。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリ

ストを得、キリストの内にいる者と認められるためです》(フィリ3:7,8)と言っているのです。

・「十字架の言葉」を語り、「十字架につけられたキリスト」を宣べ伝えるパウロの宣教はこのような射

程を持っているということを見失ってはなりません。けれども、私たちの教会は多少でも持てる者でない

と来にくいところになっているのではないでしょうか。コリントの教会には貧しい人々がいました。一方

ある程度富んでいる人もいたようです。11章の聖餐式の根拠の箇所の一つとされるところで、パウロ

《・・・食事(主の晩餐)のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、

酔っている者もいるという始末だからです。あなたがたは、飲んだり食べたりする家がないのですか。そ

れとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか》(11:21,22)と言っていま

す。コリントの教会では持ち寄りの愛餐の中で主の食卓である聖餐式が行われたようです。港町のコリン

トですから、一日中働いて夕方教会に集まる労働者もいたでしょうから、そのような人はどうしても遅く

なってしまったのではないかと思われます。そういう人が教会に来た時に、待ちくたびれて、各自持ち

寄って来た自分のものを食べたり飲んだりして、酔っぱらっている人がいる始末で、後から集まってきた

人が空腹のまま取り残されているということがあったようです。

・コリントの信徒への手紙第一では、この記事の後に「主の晩餐の制定」の記事があり、その後に、

「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べ、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を

犯すことになります」(11:27)という言葉が出てきます。洗礼から聖餐へという順序を絶対的に考えて

いるクローズドの聖餐論者の中には、この「ふさわしくない」とは洗礼を受けていないで聖餐に与かるこ

とであると解釈しています。しかし、コリントの信徒への手紙第一の文脈からすれば、この「ふさわくな

い」は、明らかに、貧しい人々を差し置いて勝手に飲み食いする富めるひとの振舞いを指していることは

明らかです。

・このように見てきますと、「十字架につけられたキリスト」を宣べ伝えるパウロの宣教は、何よりもこ

の世で無きに等しい者に向けられて語られているということが分かります。ある意味で十字架につけられ

るということが、この世で無き者にされることでした。イエスはその十字架にかけられて殺され、この世

で無き者にされたのです。そのことによって、イエスはこの世で無きに等しい者と一つになったのではな

いでしょうか。ですから、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救

われる者には神の力です」と言えるのです。

・なか伝道所の宣教目標は「貧しい人びとへの福音に共にあずかる」です。「十字架につけられたキリス

ト」を宣べ伝えるパウロの宣教も、先ず第一には、「貧しい人々への福音」ではなかったでしょうか。で

すから、私たちはその「貧しい者への福音にともにあずかる」ために召されているのです。先ほどの聖餐

の記事におけるように、聖書の文脈を度外視して自らの聖餐理解に合わせて聖書の言葉を解釈するのは、

福音を歴史社会の文脈から離れて、抽象的、観念的、教条主義的に自分の側に合わせて解釈してしまうか

らです。

・その意味で、今日から始まる受難週に、あのゴルゴダの丘で十字架につけられたキリスト(イエス)の

ことを、当時の時代状況、社会状況を想像しながら、その文脈の中で思いめぐらしたいと思います。ロー

マやユダヤの権力者によって無き者とされたイエスは、この世で無き者のようにされている人々と一体と

なられたことを見失ってはなりません。そのような文脈の中で、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっ

ては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」というパウロの言葉も噛みしめたいと思

います。