なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(472)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(472)復刻版を掲載します。2008年10月のものです。

 私の支援会が、最高裁上告棄却を受けてキリスト新聞とクリスチャン新聞に意見広告を掲載しまし

た。そのこともあってか、このブログのアクセスが多くなっているようです。
 
 最新の教団新報に私の裁判が上告棄却されたことが記事になっています。そこに石橋秀雄議長のコ

メントがあり、教会の問題を世俗の法廷に訴えた私を非難すると共に、教団教師として悔い改めて復

帰するように呼びかけています。私から見れば、何ともしらじらしい感じで、私の戒規免職に至る過

程の中で、信仰的な悔い改めの説得を一度も私にしないで、教憲教規を恣意的に解釈して法的制裁を

私にしておきながら、戒規は訓練規定だから悔い改めて復帰を祈ると、よく言えたものです。

 聖餐の問題は教会の問題ですから、一教師を戒規免職処分にしても何の問題の解決にもなりません。

もし現教団執行部が日本基督教団における聖餐の執行の多様性を何とかしたいのなら、洗礼を受けて

いない人にもその人が希望すれば陪餐できる聖餐式(以下オープン聖餐)を執行している教会及び教

師との話し合いを積み重ねるべきだったのです。しかし、日本基督教団の相当数の教会や教

師が既に1970年前後以来オープン聖餐を行っている現実があります。1990年代前半までは日本基督教

団信仰職制委員会でも、この聖餐の問題を議論してきており、総会期をまたがる委員会の継続課題に

してきたのです。それを一部の勢力が数の力で教団執行部の主導権を取り、上から強引に教団の統制

を強めてきているのが現状です。石橋議長の私への「悔い改めて復帰することを祈る」という言葉は、

この統制に従えという権力主義的な横暴以外の何物でもありません。

 先日の教団教師委員会の面談でも、私が悔い改めたか問われました。その時、あなたがた教師委員

はどのような意味で私に悔い改めを求めるのかと問い返しました。一教会の牧師としてその教会員と

共に決断して行ったオープン聖餐が間違っていたと私が悔い改めたとしたら、一緒にここにイエス

福音の真実があると決断した教会(教会員)を裏切ることではないですか。そんなことを私に本当に

求めているのですかと問い返しました。それに教師委員は答えることなく、それでは悔い改めていな

いということですねということで、私が悔い改めていないことを確認したようです。この問題は現教

団執行部がボタンの掛け違いをしたのであって、私の戒規免職処分の前に戻って、日本基督教団とし

て聖餐についてどう考えるかを議論していく以外にないと、私は思っています。その議論の結果、教

団が二つに分かれるということはあり得るとは思いますが、世界の教会が一つに向かっているこの時

代にあっては、それ自身アナクロニズム以外の何物でもないと私は思っています。

 ですから、教師委員会の面談でも、教団側がこのままでいくなら、例え私を免職から除名にしても、

私は死ぬまで闘わなければなりませんよと申し上げました。

 この私の戒規免職問題は、私の支援会「北村慈郎牧師を支援する会」ホームページに戒規免職処分

に至る経過なども掲載されていますので、そちらをご覧ください。


      
        黙想と祈りの夕べ通信(472[-01]2008・10・5発行)復刻版


 9月30日に8月28日に召されましたKさんのお別れ会が行われました。当日は小雨模様でしたの

で、参列者は少数でしたが、静にお別れ会をもつことができました。Kさんは1921年(大正10年)10月

3日に生まれました。金沢大学医学部を卒業し、その後輪島の病院に勤務されました。その時代に1948

年(昭和23年)2月8日に日本基督教団輪島教会で、I牧師より洗礼を受けました。記録によりますと、

その後の11月7日付けで、当紅葉坂教会に輪島教会から転入会されております。横浜市の公衆衛生の医

師になられて、横浜に帰ってきたのではないかと思います。私は紅葉坂教会に高校3年の時から来るよ

うになりまして、洗礼を受けてクリスチャンになりましたのは、1959年(昭和35年)のクリスマスで

す。その頃からKさんとは教会の礼拝で一緒でしたので、顔見知りになりました。青年時代に教会の日

曜学校にはKさんの子息である中学生のNくんと小学生のMくんがきていました。私は1968年4月からは、

その一年後に牧師になることになっていました東京の下町の教会に結婚していました連れ合いと一緒

に行くようになりましたので、紅葉坂教会から離れました。1974年4月には伝道師として紅葉坂教会に、

その時は5人家族として帰ってきました。それから1977年3月までいましたが、伝道師ですから月1回礼

拝の説教をします。この講壇からお話をするのですが、Kさんは、私の方から右側の、前の方に必ず座

っていて、一生懸命メモをとっているのです。最初は随分熱心に私の話を聞いてくれていると思って

感激しました。ところがあるとき、偶然にもKさんがもっていたその日の礼拝の順序などが印刷してあ

ります週報をみる機会がありました。すると、そこには、いろいろな写生がしてあるのです。当時日

曜日には講壇の横に花が生けられていました。その花や説教者の写生がしてあるのです。なるほど、

それであんなに熱心にメモしているように見えたのだと納得しました。1977年から私は名古屋の教会

に転任しました。1995年に紅葉坂教会の牧師として帰ってくるまでの18年間はKさんとはほとんどお

会いしていません。その間NくんとKさんのお連れ合いがお亡くなりになりました。1995年に私が紅葉

坂教会に来た時には、野毛にあった家にではなく、川崎の向丘遊園地の近くにありましたシニアハウ

スにKさんはいらっしゃいました。絵を描き、絵の仲間と交流し、キリスト教の関係では、世界的な

運動ですがギデオン協会という聖書を病院、学校、ホテルに無料で配る会に所属していました。この

会は実業家やKさんのようなお医者さん、弁護士のような人が入ることができる会です。また、週一回

朝集まって超教派で行われています横浜朝祷会に熱心に出席していました。2003年の春ごろから、多

分少し認知症になりつつあったのではないかと思いますが、教会の礼拝には来ましたが、小集会室に

座ってなかなか帰らないということがあるようになりました。そのうち、外出した時、例えば朝散歩

に出かけて、シニアハウスの自分の部屋に帰れなくなるようになっていきました。そうこうしている

内に、ある時関内で絵の仲間と食事をして、まだその頃は東横線桜木町に来ていましたので、桜木

町から乗って、武蔵小杉でJRの南部線に乗り換えて宿河原で下りて、シニアハウスまで帰るのですが、

武蔵小杉を乗り越して、渋谷まで行ってしまいました。あわてたのか酔っていたのか、階段なのか線

路なのか分かりませんが、落ちて救急車で病院に運ばれたことがありました。その時は軽い怪我で済

んだのですが、それから認知症が大分進んでいきました。シニアハウスでは生活ができなくなり、同

じ系列の若葉台にある介護ホームに2003年11月に移りました。介護ホームに移ってから、後見人を探

していただき、2004年12月から甥にある方がKさんの後見人を引き受けてくださいました。介護ホーム

に移ってからのKさんは、比較的元気で、私が訪ねて行きますと、よくこの近くに講演をしにきたのか

と、おっしゃいました。多分ご自分が公衆衛生の会でかつて講演したことを思い出していたのではな

いかと思われます。私もどこそこに講演をしにいかなければならない、などとおっしゃっていました。

昨年10月にお訪ねした頃から、大分弱って来まして、寝たきりの状態になっていました。去る8月28日

に86年と約10ヶ月の生涯を歩み終えて、神様のところに帰っていかれました。

 ご遺族の上に主の慰めと平安をお祈りいたします。     
 


          「魂の同伴者」        10月5日


 エマオの弟子たちの家でパンを割かれた時に、二人の弟子たちはそれがイエスだと分かりました。そ

の時、イエスの「姿は見えなく」(ルカ25:31)なりました。イエスだと分かることと、イエスの姿が

見えなくなるというこの二つのことは、実は同じ一つの出来事です。なぜでしょうか。それはキリスト

である彼らの主イエスが、自分たちの中に生きておられること、そしてそれゆえに自分たちがキリスト

を運ぶものとなったのだということが、弟子たちに分かったからです。つまり、イエスはもはや、彼ら

が話したり、助言を得たりする見知らぬ人や客や友人として、テーブルの向こうに座っているのではあ

りません。イエスはこの弟子たちと一つになられたのです。

 イエスはご自身の愛の霊を二人に与えられました。彼らの旅の道連れであられたイエスは、今や彼ら

の魂の同伴者となられました。二人は生きています。けれども、生きているのは彼らではなく、二人の

内にあって生きておられるキリストなのです(ガラテヤ2:20)。


                  (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)