なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(75)

     使徒言行録による説教(75)使徒言行録20:13-24節

              
・使命という言葉は「命を使う」と書きます。使命をもって生きるとは、命を使う目標を明確にもっ

て生きるというように考えられるかと思います。

・私たちの多くの者にとりまして、この「使命」という言葉は、何かうさんくさいものがあるのでは

ないかという疑いが付きまとう言葉ではないでしょうか。そういう歴史的経験を私たちは共有してい

るのではないかと思うのであります。その典型的な事例が、日本の15年戦争とその敗戦という経験で

はないかと思います。私たち日本基督教団の牧師の中には、若い時に天皇を神とする戦前の天皇制国

家のイデオロギーに心酔し、自ら志願して帝国陸軍や海軍の兵士になり、大東亜戦争に積極的に加担

した人で、戦後その過ちに気づき、信仰に導かれ牧師になったという人がいます。もうほとんどの方

は天上の人になっているか、牧師を隠退して、現役を退いています。この方々の中には、戦後の教団

の歩みの中で重要な役割を担った方も少なくありません。戦前の教育を通して形作られたその資質の

中に、何かに命を懸けて殉ずるという精神が形成されていて、戦前は「天皇」に或は「お国のため」

に命を懸け、戦後キリスト信仰に導かれ、「神のために」「キリストのために」命を懸けて伝道する

という人がいたように思われるのであります。

・このような戦時下の時代における経験だけでなく、戦後の1960年代半ばごろから1980年代半ばごろ

までの20年間では、「企業戦士」というような言われ方をする人々がいました。1960年の安保闘争

経て、その後池田隼人首相が所得倍増計画を打ち出し、世界から日本がエコノミックアニマルと言わ

れるような時代になりました。既に欧米では脱工業化社会になりつつあるときに、日本は工業化社会

のど真ん中にいて、モノづくりにおいてジャパン・イズ・ナンバーワンと言われ、華々しい経済成長

の時代でした。その時代に「企業戦士」という企業の業績拡大のための仕事に命を懸ける人がいたわ

けです。その頃には「過労死」で実際に亡くなる人がでるほどでした。このように命をかけて生きる

人がもてはやされた時代の余り喜べない経験をしている私たちにとって、命をかけて生きるというラ

イフスタイルには、全面的に肯定できないうさんくささを感じてしまうのではないでしょうか。

・また、日本の社会の様相がバブル崩壊後、それまでとは全く変わってきているということがありま

す。状況が一つの分かり易い形で現れるのではなく、何でもありという多様で複雑で混乱した形で現

れてきますので、何かに命を懸けるという、その何かを見出すことがなかなか困難な社会になってい

るということがあるのかも知れません。人を引き付けるようなものをこの社会の中に探しても、外在

的にはなかなか見いだせない。東電福島島第一原発の事故が起こって、反原発に命を懸けるとか。集

団的自衛権閣議決定されたので、いよいよ戦争のできる国造りに安倍政権はシフトを定めたので、

これは絶対に反対しなければならないという、そのために命を懸けるとか。これは分かり易いのです

が、使命がここにありますよ、あそこにありますよというように、自分の外側のどこかにそれを探し

てもなかなか見つからないという状況が、現代の日本社会の現実ではないでしょうか。

・最近脱法ハーブによる事故が相次いでいますが、脱法ハーブを吸うとどういう状態になるのか。一

時的に朦朧とした状態になって、気分が解放されるのでしょう。そういう状態になって現実逃避がで

きるのでしょう。その状態で自動車を運転すれば、事故がおきるのも当然です。けれども、脱法ハー

ブが売られ、それを買って吸う人がいるということは、現実が重くるしく、一時的にでも解放された

気分を味わってみようとする人が多いということなのでしょう。そのことは、今の社会ではなかなか

使命を見出し、そこに命を懸けて、ひたすらに生きるという道が見つからないということなのでしょ

う。

・私たち教会の現実も、この世の現実とそれほど変わらないのではないでしょうか。特に私たち日本

基督教団は現在主導している人々によって、信仰告白・教憲教規による一致に基づいて伝道する教団

にするのだと言われています。伝道するとは道を伝えるということですから、どうしてもパトスがな

ければできません。パトスは情熱であり、そのために苦しむ受苦の精神です。伝えるべき道に心動か

され、その道を他者と共に生きるとの強い情熱があってはじめて、伝道ということができるのでしょ

う。

使徒言行録の著者ルカによれば、パウロは第三伝道旅行を終えて、エルサレム教会に献金を持って

行き、非ユダヤ人信徒を中心とするパウロが設立した諸教会の実情を伝えるために、エルサレムへの

旅に出ます。エルサレムの教会に献金をささげ、<ユダヤ人もギリシャ人もなく、・・・皆キリスト

・イエスにおいて一つ>(ガラ3:28)であることを確認して、ローマに行くためです。トロアスから

ミレトスまで船旅をして、ミレトスに滞在していた時に、パウロは<エフェソに人をやって、教会の

長老たちを呼び寄せた>(20:17)というのです。<できれば五旬祭ペンテコステ)にはエルサレム

に着いていたかったので、旅を急いだ>(16節)ため、<エフェソに寄らないで航海することに決め

ていたから>(16節)です。<長老たちが集まって来たとき、パウロはこう話した>(20:18)と、

使徒言行録20章18節以下に、パウロの話した内容が記されています。

・まずエフェソの長老たちに向かって、パウロは<アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたが

たと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです>(18節)と語りかけたというのです。そして

<すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀に

よってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました>(19節)と続けま

す。そして<役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教

えてきました。神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリ

シャ人にも力強く証ししてきたのです>(20,21節)と、自らの宣教の働きについて語っているのです。

<そして、今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます>(22節)とパウロエルサレム

きを神の御心と信じていることを伝えます。そしてこのエルサレム行きにおいて、<そこでどんなこ

とがこの身に起こるか、何も分かりません>(22節)と言い、<ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち

受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています>(23節)と言

って、エルサレムでも「投獄と苦難」に見舞われることを予測しているのです。その上で、<しかし、

自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しす

るという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません>(24節)と、

パウロは語ったというのです。

・この最後の24節から、わたしたちは使命に生きるパウロの姿をはっきりと見ることができるのでは

ないでしょうか。パウロは<自分の決められた道を走りとおし>と言っています。<自分の決められ

た道>がはっきりとしていて、その道を走りとおすことが人生の目標である人は、自分の命を使って

生きることにひたすらになることができるでしょう。疑い迷うこともないからです。パウロはこの自

分の決められた道を、復活の主イエスとの出会いによって与えられたのです。パウロは、このイエス

への従順としての決められた道に生きるようにフィリピの信徒にも勧めています。<わたしの愛する

人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順で

いて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心の

ままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。

とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神

の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自

分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄でなかったと、キリストの日に誇ることができる

でしょう>(フィリピ2:12-16節)。
パウロは、この自分の決められた道で<果たすべき任務ができさえすれば、この命すら惜し

いとは思いません>と言ったというのです。その任務とは、<神の恵みの福音を力強く証しする>こ

とです。パウロは、生活においては人から支えてもらった部分もありましたが、主には天幕づくりを

しながら、自分の決められた道で与えられて任務を全うするために命を使ったのです。

・マタイによる福音書のイエスの山上の説教の中に、明日のことを思い悩むなというイエスの有名な

言葉がります。空の鳥、野の花を見よと言われているところです。このイエスの教えでは、まず「だ

から、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着

ようかと思い悩むな」(6:25)と言われています。そして神の配慮の中に自由な空の鳥と野の花を示

し、わたしたち人間にとって衣食住が必要なことは神がご存知である。だから<何よりもまず神の国

と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる>(6:33)と言われてい

るのです。

神の国と神の義に連なる仕事、私たちの働きは様々でしょう。自分の命と体を守るために、他者を

その道具や手段にするのではなく、自分の命と体を使って神の国に連なる他者との共生をめざす仕事、

働きをしたいものです。関田寛雄牧師は、私の支援会通信に寄せて書いてくださった文章の中で、こ

のように書いています。「教団が宣教を今日の時点で考える時、東日本大震災への対応と部落解放問

題及び各種人権抑圧の問題と共に、いよいよ基地強化が押し進められている沖縄教区の苦悩に取り組

む以外に、何があるというのでしょうか」と。

・権力と資本の論理によって、また人の暴力によって命と生活が脅かされている人々の人権と生活が

守られ、その命と体をもって神の愛のもとに互いに愛し合って生きることができるように、私たちは

自分に与えられている仕事・働きに、命を使って生きていきたいと願います。それは反原発の運動で

あったり、反基地の運動であったり、さまざまな抑圧された人々の命と生活を守る運動だったり、他

者と共に喜び、共に苦しむ歩みだったり、それぞれが与えられている課題は異なっても、神の国と神

の義を求めて生きる道に違いありません。そのことが、今日私たちが神の恵みの福音を力強く証しす

ることではないでしょうか。いたずらに使命を振りかざす必要はありませんが、私たちは、自分の命

を使って生きる道が与えられている幸いを、神に感謝したいと思うのであります。