なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(571)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(571)復刻版を掲載します。2010年9月のものです。
 
 土曜日は説教を掲載していますが、先週の日曜日、私は夏期休暇の振り替えでお休みしましたので、

黙想と祈りの夕べ通信(571)復刻版を掲載します。


       黙想と祈りの夕べ通信(571)[Ⅺ-48]2010・9・5発行)復刻版


 8月30日(月)~31日(火)と同志社神学協議会2010に、Tさんと参加しました。この協議会は2年に一度

開催されるようですが、2年前にもTさんHさんと3人で出席しました。2年前の時には、協議会のプログラム

の中と終わってからの有志懇談会で聖餐問題の渦中にあります私と紅葉坂教会のことを覚えて下さいまし

た。今回は、有志懇談会で紅葉坂教会から報告してほしいということで参加しました。

 2年前には紅葉坂教会を孤立させてはならないという熱気が伝わってきましたが、問題が長引いています

ので、今回は2年前ほどではありませんでしたが、有志懇談会ではTさんによる私の免職問題の経過と問題

点に多くの方が耳を傾けてくれました。

 神学協議会そのものは、同志社大学神学部出身者の教団教職が中心になって組織されています同信会の

総会ではないかと思います。協議会のメインには公開講座が設けられていて、今回は以前同志社大学神学部

の部長をされたことのある森孝一さんが講師で、「会衆主義の伝統と希望」という題での講演がありました。

前回も会衆主義についての講演があったように思いますが、同神会では会衆派教会としての伝統の再認識に

力を入れているのかも知れません。例えば、福音主義教会連合の機関紙には、以前紅葉坂教会で青年時代一

緒に過ごしたことのある上田光正さんが福音主義教会連合全体会で行った「日本基督教団の信仰の一致を求

めて」という主題講演が掲載されています。この上田さんの文章に記されています信仰理解は、明らかに長

老主義の伝統によるものです。長老主義の伝統によるある種の正統主義と言った方が正確かもしれません。

彼の文章の中に、「戒規の執行は、信仰告白という、教会の〈中〉の最高の権威の発動の問題としてとらえ

るべきものです。」といところがあります。「信仰告白という、教会の〈中〉の最高の権威」という理解は、

明らかに長老主義的な理解です。そういう信仰告白を会衆派の旧組合教会はもっていません。各個教会に教

憲法はありますが、神学としてはリベラリズムです。森孝一さんは、「原理主義に共通する要素」として

以下の3点を挙げています。

 ー分たちは真理を知っている。

◆/人?論掬機福峩儀皜亀」と「信仰告白」)のなかに書かれており、明らかである。

 真理を受け入れない者は排除してもいい。

 これは明らかに私を免職にしようとする教団主流派の立場です。森さんは講演の中で、一神教にふれてこ

のように言いました。「一神教は、ただ一人の神を信じるがゆえに、神以外のものを神としないという立場で

す。信仰告白も教義も神ではありません」。正統主義の誤りは、自分たちは正しいと居直るところにあります。

私は、神を信じるということは自己相対化するということだと思っています。ですから、真理を求めて論争

することはできても、自分たちは真理を所有しているからと言って、他を排除することはできません。あく

までも対話の継続の中で、お互いに真理に従うということではないでしょうか。

 森さんの講演後の質疑応答の中で、会衆派の教会の伝道が振るわないのはなぜか?とい質問に、森さんは

回心体験の明確化が豊かでないと会衆派の教会の伝道は振るわないと言っていました。救われたとい強烈な

体験があれば、その体験を他者と共有したいと、自ずから願うのではないかということなのでしょう。私自

身はどうだろうかと思わされました。
          

            「言葉を賢明に選ぶ」     9月5日


言葉はとても重要です。誰かに「君ってみにくく、役立たずで、最低」と言えば、その人との関係を一生台な

しにしてしまうことになるかもしれません。言葉は何年にもわたって害を及ぼし続けることがあるからです。

 だから、言葉を賢明に選ぶことはとても大切です。怒りで煮えくり返り、相手に辛辣な言葉を投げ掛けずに

いられないような時には、かえって黙っているほうがよいのです。怒り狂って発せられた言葉は、仲直りする

のを非常に難しくしてしますでしょう。死ではなくいのちを、呪いでは泣く祝福を選ぶことは、多くの場合沈

黙をまもること、あるいは癒しに到る道を開いてくれる言葉を心して選ぶことから始まります。


                     (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)