なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(302)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(302)復刻版を掲載します。2005年7月のものです。

 今日は、連れ合いの古い友人が二人鶴巻に泊まり、旧交を温めることになっているので、午前中買い物

に付き合いました。晴れ渡った青空が透き通っていて、丹沢の山並みがくっきりときれいでした。風は少

し冷たい感じでしたが、穏やかな晩秋の一日を過ごせる幸いを感謝しています。以下の通信の中には、教

信仰告白と教憲教規をふりかざす教団の大勢への批判がありますが、現在は文字通り教団執行部によっ

信仰告白と教憲教規を枠組みとする教団形成がもくろまれています。聖書と福音が信条や法に拘束され

るとは思えないのですが・・・。


         黙想と祈りの夕べ通信(302[-41]2005・7.10発行)復刻版


 7月5日(火)神奈川教区常置委員会で宣教研究員会の答申の「聖餐」に関する話し合いが行われまし

た。宣教研究委員会の答申の内容は3点です。〔ぜ??圓乏かれた聖餐を執行している教会にはその教

会が置かれた場や歴史によってそれなりの必然性があると思われるので、それぞれの教会の営みを重んじ

ること。∪算舛亡悗垢詼楴租な論議を教区として積み上げていくこと。C篭茲箒偽茲僚顕颪農算舛鮗

行する場合に各個教会の聖餐理解の違いが障害になることがあり得るので、その点早急に対策を考えるこ

と。常置委員会ではこの答申についての話し合いをするということで、発題に私と横浜指路教会のF牧師

の二人が指名されました。当日Fさんは教会員の葬儀があり欠席で、文書を寄せられました。私は未受洗

者の陪餐が教団の教会の問題になるようになったのは、70年以降であること。そこには聖書学の解明とキ

リスト教絶対主義の崩壊が起因していることに触れ、紅葉坂教会が未受洗者に開かれた聖餐を教会規則8

条削除をもって教会として正式決定した経緯を話しました。そして最後に聖餐の政治性に触れて、話を終

えました。聖餐の政治性とは、現在の教団の教会は全体として日曜日ごとの礼拝にしろ、未受洗者に開か

れるにしろ閉じられるにしろ教会で行われている聖餐は、たとえば寿の日雇い労働者や野宿を余儀なくさ

れている方々、あるいは障がい者の方々がなかなか参加できない閉鎖性をもってしまっています。そのよ

うな教会で行われる聖餐がもつ政治性が、私たちの教会の最も重要な課題ではないかと、私は問題提起し

ました。この点は岸本羊一牧師も『礼拝の神学』の中でコクレーンの言葉を引用して示されている問題で

す。「現代における聖餐をめぐる緊急な課題は、・・・抑圧的権威の象徴である聖餐ではなくて、『貧し

き者、罪人たちと共に食事されるイエスに、自分もまた一人の罪人として、赦された者の自由を祝う』

(コクレーン)聖餐を、どのように見いだすかにあるといってよういのではないかと思われる」(『礼拝

と神学』85頁)。しかし、常置委員会での話し合いで出てきた質問や意見は、教憲教規からは未受洗者に

開かれた聖餐は不可能だとか、エキュメルカルな問題として宣教協約をした在日大韓基督教会に対する違

約だとか、さらに過激な意見としては、教会規則8条削除を教会総会で決定した教会は教団から脱会して

単立の教会になるべきだという発言もありました。また、未受洗者への陪餐をするならば、現住陪餐会員

という教会のメンバーについても問題にしなければならないのではないかという意見も出ました。このこ

とは、私たちの教会で聖餐の問題を論議したときにも出ていた問題です。紅葉坂教会では、教会員につい

ては現在の教団の教憲教規に即していることをお話しました。常置委員会が終わった後、参加者の一人か

ら、かつて自分が働いていた教区の中のある教会では、総会があるときに礼拝に出席した人すべてがその

まま議員となっていたという報告を聞きました。その教会は地域と密着していて、洗礼を受けている者も

受けていない者も教会としては同等に考えていたということのようです。各個教会はその置かれた場と課

題によって多様性があるのが当たり前ではないかと思います。それを教憲教規と教団信仰告白が教団の教

会のアイデンティティーだということで、各個教会の多様性を一つに統一しようとする空気が、教団の大

勢になってきているのでしょうか。常置委員会での私の発題の意図は、ほとんど分かってもらえなかった

ようです。私の教団との関わりは、戦時下の教団成立にある国家の強制に対する教会の主体性の回復にあ

りますので、自分から教団を脱会することは考えていません。