なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(519)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(519)復刻版を掲載します。2009年9月のものです。

 
         黙想と祈りの夕べ通信(519[-45]2009・9・6発行)復刻版


 8月30日の日曜日は牧師夏期休暇でしたので、私は二宮教会の礼拝に出席しました。この3月に農村伝

道神学校を卒業したIさんが二宮教会に赴任して、その就任式が30日の午後3時から予定されていましたが、

私は就任式に出席できませんので、礼拝に出席し、お祝いを申し上げました。二宮教会の前任者のKさんが

補教師で二宮教会に赴任したときの就任式の司式を私がしたこともあって、Iさんの就任式にも出席しなけ

ればと思っていたからです。そういうことで私はIさんの就任式には出席できませんでしたが、先日の常置

委員会でIさんの就任式の司式をしたS牧師が、教団の式文通りに就任式の司式をせず、しかも教憲教規遵

守を軽んずるような発言をしたということで、その就任式に出席していた他の常置委員から疑義がでました。

Sさんは、就任式で自分が言ったことは、教憲教規を守らなければいけないが、イエスが「安息日は人のた

めにあるので、人が安息日のためにあるのではないはない」と言って、安息日の禁止規則を破ってまで病

者を癒したように、ただ教憲教規を守ればいいということではなく、事柄によっては教憲教規を超えてしな

ければならないことがあるということです。教会において牧師としてその務めを果たして行くときに、こ

のことは大変重要なことです。勿論規則は尊重されなければなりませんが、ただ規則に従っていればいい

ということではありません。聖餐の問題がそれ程のことであるかどうかはともかくとして、現実の牧師の牧

会において、この世の法を破らざるを得ないということもあり得るのです。もう大分前になりますが、兵庫

のT牧師が学生運動で警察に追われていた学生を教会にかくまったということで訴えられ、裁判になったこ

とがあります。T牧師は学生をかくまったのは、牧師としては当然のことで、牧師の牧会権であると主張し

ました。それが裁判で認められたかどうかは忘れてしまいましたが、牧師が法を破ってまで人の人権を守る

ということはあり得ます。また、かつて在日韓国・朝鮮人指紋押捺拒否の運動がありました。これも法に

は違反していますが、人権運動として盛り上がりました。常置委員会では、そういう本質的な話し合いには

ならずに、機会を改めて話し合うことになりました。教憲教規遵守一本で来る人は、おそらく相反する立

場を容認した上で、異質の他者とどう関わり、どう話し合っていくかという姿勢に耐えられないのでしょう。

相反する立場も含めていろいろな立場の人たちの寄り合い所帯において、そもそも共通前提がないところで、

全体を一つにまとめるために規則が声高に語られるということが起こるのでしょう。そういう意味で規則遵

守を余りに強く言うことは、異質な他者を認めない対話拒否になり兼ねません。

 その日の常置委員会では、非受洗者に開かれた聖餐をしている紅葉坂教会の役員会と教区の三役と主事が

話し合うことが決まりました。その論議の中で、開かれた聖餐を直ちにやめてもらうように教区三役と主事

紅葉坂教会の役員会に行って申し入れるために行くのだという意見が一人の常置委員から出ました。その

際Hさんが教憲教規からしても教区が一教会の決断にどうこういうことはできないのではないかという趣旨の

発言をしました。それに対して、教憲教規は各個教会よりも上位の教区・教団に従うようになっているとい

う意見がでましたが、教団の歴史における教憲教規成立からしても、それは言えません。紅葉坂教会に教区

として非受洗者に開かれた聖餐をやめてもらう申し入れをするのだと言われた常置委員の方は、紅葉坂教会

の開かれた聖餐執行は牧師や役員の主導でなされているもので、教会員は望んでいないのではないかという

趣旨の発言をしました。Hさんはその常置委員に紅葉坂教会に来て見てくださいと訴えていましたが、実際

に私たちの教会についてほとんど知らないにも拘らず、教憲教規違反ということで、その常置委員の方は私

たちの教会はこうだろうと決め付けているように思いました。忍耐強い対話が必要とされていると思うので

すが、教憲教規という規則の存在が、対話の阻害になっているのかも知れません。 

   

           「愛の言葉を語る」          9月6日 


 私たちは、しばしば話さなければならない時に黙ったままでいるように思われます。言葉で言い表さない

で、深く愛することは困難です。両親や子どもたち、恋人、友人に、「とっても愛している」とか「気にか

けているよ」とか「いつも君のこと思っているよ」とか「あなたは私の最高の贈り物」と言う時、私たちは

いのちを与えることを選んでいると言えます。

 愛を直接言葉で言い表すのは、いつでも簡単に出来ることではありません。けれども、愛を直接言葉で言

い表すたびに、私たちは、聴く人の心に永く記憶される祝福を与えていたということに気づきます。息子が

父に「お父さん、好きだよ」と言えるなら、母が娘に「かわいい子、愛しているよ」と言えるなら、全く新

しい祝福に満ちた場所が、そこに好んで留まりたいような空間が、開かれてくるでしょう。実に、言葉はい

のちを作り出す力を持っているのです。


                   (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)