黙想と祈りの夕べ通信(518)復刻版を掲載します。2009年8月のものです。
黙想と祈りの夕べ通信(518[-44]2009・8・30発行)復刻版
9月から黙想と祈りの夕べは再会します。
この週は二つの集会に参加しました。一つは障がい者と教会の集い(8月23日~24日開催)です。この集
いの開会礼拝で、I牧師は以下のように話された。障がい者は教会という共同体の構成員として教会の必要
とされた存在ではなく、むしろ必要とされない存在として教会の共同体から排除されているのではないか。
障がい者を排除して成り立っている教会の共同体はイエス・キリストの福音によって建てられている教会と
は言えないのではないか。むしろ今ここに開かれている障がい者と教会の集いが本来の教会と言えるので
はないか。特に今回は牧師の参加者がいつもより多い(約80名の出席者中14~15名の牧師が出席)ので、
牧師の方々にはよく考えていただきたい、と。この飯塚牧師の開会礼拝の説教については、既成の教会を
否定するだけではなく、既成の教会の中にも障がい者を受け入れているところもあるのだから、もう少し
違ったアプローチもあっていいのではないかという趣旨の意見もありました。今年の障がい者と教会の集
いのテーマは「支えあって、生きるために」でした。紅葉坂教会からKさんが、発題者の一人として視覚障
がい者のためのテープ朗読、もみじの会の歴史を話しました。私はこの集いには十数回出ていますが、出
る度に新しい気づきが与えられ、障がい者と共に生きることの深さと重さをいつも考えさせられています。
もう一つの集会はフェミニスト神学の会(8月25日~26日開催)です。今年は参加者一人一人がコリントの
教会の女性たちに手紙を書くことから始まりました。私も書きましたので、その手紙を紹介します。
《主にあって、21世紀の一応キリスト者であり、教会に所属している者から、コリントの教会の女性の方
々へお手紙を差し上げます。
私は、あなたがたの教会を設立したパウロという人間のことはよく知りませんが、余り好きではありま
せん。彼はユダヤ人ですが、非ユダヤ人を中心とするあなたがたのコリントの教会を設立するに当たって、
キリストにあってはユダヤ人も非ユダヤ人(異邦人)もないと言って、狭い民族主義を超えた点は、なか
なか評価できると思います。またガラテヤの教会へ書いた手紙で、キリストにある徹底的な平等主義(キ
リストにあっては「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。
あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(3:28))に立っていることは素晴らしい
と思います。21Cの現代社会にも差別、特に女性差別は厳然と存在しています。それなのに、2000年も昔に
パウロは「男も女も」ないと言って、キリストにある男女平等を唱えているのですから。でも、どうなん
ですか? あなたがたは、コリント教会の交わりの中では本当に男女平等であり得たのですか?
私は大いに疑問をもっています。キリストにあって男女平等を唱えているパウロが、あなたがたの教会
に宛てた手紙の中で、女性に対する差別的な発言をしているからです。
「婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言ってい
るように、婦人たちは従う者でありなさい。何か知りたいことがあったら、家の中で自分の夫に聞きなさ
い。婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです。・・・」(汽灰螢鵐14:34-35)
これはパウロという人の本音と建前の違いなのですか? 私もパウロと同じ男で、ある意味でパウロと同
じ仕事をしている者ですが、ついついカッコイイことを言いたくなるのです。神とイエスのもとにあって
は対等・同等だと。でも実際にあなたがたの社会と比べたら、はるかに民主的な私たちの社会であっても、
それを生きることは大変困難です。
パウロは本当に言っていることとやっていることが一致していたのでしょうか? ぜひ、あなたがた女性
の立場から見たパウロの実像を教えて下さい。それが分かれば、今私たちの教会の中でパウロ、パウロと言
って、イエスよりもパウロを中心にしている人たちに、「コリントの教会の女性たちの目から見たパウロは、
こういうとんでもない奴ですよ!」と言ってやりたいと思いますので、ぜひよろしくお願いいたします。
では、いずれ天国でお目にかかれるときを楽しみにしています。
主に在りて
2009年8月25日
悩める21Cのキリスト者から》
それぞれ書いた手紙を読み合い、その手紙をヒントにして三つのグループに分かれてスタンツを考え演
じ、お互いに感想を言い合いました。ただ本を読み、聖書を読むだけではなく、演じて見ると、なかなか
面白い発見があります。このフェミニスト神学の会は毎年20名前後の参加者によって開かれています。
「いのちを選ぶ」 8月30日
神は言われました。「わたしは・・・・生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたはいのちを選び、
あなたもあなたの子孫もいのちを得るように」(申命記30:19)と。
「いのちを選びなさい」。それが神の私たちへの呼びかけです。私たちがその選択をしなくてもよいよう
な瞬間はありません。生と死は常に私たちの前に置かれています。私たちの想像、考え、言葉、仕種、行動
において、さらに何もしていない時でさえも。このいのちを選ぶ選択は深い内なるところで始まります。紛
れもなく生を肯定するような行動をしているのに、より深いところでは死を思い、死を感じていることも出
来ます。最も重要なのは、「殺すか」ではなく「心に祝福を抱くかそれとも呪いを抱くか」という問いかけ
です。人を殺す弾丸は、憎しみの最後の道具でしかありません。銃を手にするよりも前に、憎しみは長く心
の中に巣くっているのです。
(ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)