なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(103、復刻版)

 今日は、昨日から船越教会に来ています。何時もは月曜日から木曜日午前中までは鶴巻にいるのですが、今晩常置委員会があり出席しなければなりませんので、昨日から船越教会に来て、「私の『戒規免職処分』問題はまだ終わっていません!」を教団の全教会・伝道所に送付する作業をしています。この作業を終えたら、その後は4月26日の第一回口頭弁論の準備に集中しようと思っています。
 
 さて今日は、「黙想と祈りの夕べ通信(103、復刻版)を掲載します。

      
        黙想と祈りの夕べ(通信 103[-51] 2001・9・16発行)

 今日は礼拝の後エイジグル-プで、教会だよりに投稿されたK・Fさんの「婦人会について」(名称の差別性の指摘および名称変更案と共に、性別・年齢別のグル-プではない形での集まりがベタ-ではないかという提言が内容)での問題提起を受けて話し合われた。「婦人会」は参加者40名位で、一人ずつ言いましょうという司会者のリ-ドで、ほぼ全員が発言した。それぞれの発言にはその人の個性が出ていた。結論を出すのではなく、それぞれの思いを語り合った。中には、婦人の「婦」が女偏に箒と書いて、「掃除は女の仕事」という性別役割意識に根ざした言葉で、差別性があるという言葉の問題になると、辞書をみんな変えなければならないのではという発言もあった。参加者の中には、今は年を重ねたので抵抗はないが、かつて若いときに自分はシングルなので、「婦人会」に入るのに抵抗を感じたことがあるという発言が数名からあった。そういう抵抗が少数でもあるならば、名前を変えたらという意見もでた。かわいらしい名前を付けたら、メンバ-の年令構成からしておかしいのでは、と笑い合った。女性・男性という性別を前提にした考え方には、性同一性障がいの人のことが排除される可能性があり、難しい。「女を生きる会」とでもすれば、その点はクリア-できるかもしれないが…? 自分は、投稿についてみんなが考えたということが大事に思う。そのことが、何かが動いたということであり、すぐには変えられなくても、ここで考え合ったということで、次の何年か先に変化が起こるのではないかと思う。神の導きがどこにあるのかは分からないが、導きの中に置かれているのを感じる。教会に集ういろいろな人が、抵抗なくそこにいられるような集会が持たれ、それぞれの賜物が生かされることを切に願いたいと思う。

 上記の一人の姉妹の発言に続いて、もう一人の姉妹が、その日観賞したオペラについての感想を話された。自分は今までオペラに興味を感じたことがなく、観たことがなかったが、今日機会があって行ってきた。とても感動した。大勢の方の努力の積み重ねがあって、あのような舞台ができるのだと感じた。これからは先入観を捨てて、いろいろなことを受け入れていきたいと思いながら帰ってきたと。

 私は、この日日曜学校中高科の礼拝でアブラハムについての森有正の説教から、人間の尊厳や人格について話をしました。森有正は現代に生きる私たちは社会化に組み込まれてしまって、機械の部品のように扱われている現実を問題にします。森有正の説教は1975年ですが、その時フランスの状況を語って、国民総背番号制がすでに現実化しているというのです。自分にも番号が付けられていて、そこに個人情報が記録され、管理されていると。そういう社会の中では人格とか人間の尊厳さということは、ほとんど顧みられないわけです。森有正アブラハムを例に出して、アブラハムメソポタミアからカナンに旅をしたのは、神の約束を信じての出自であるが、そこにはアブラハムにおける内的促しがあって、アブラハムはその内的促しに従ったのだというのです。そして、アブラハムのように内的促しに従って生きる時に、私たちは他に代わることのできない個の尊厳、つまり自分らしく生きることができるのだというのです。均一化に抵抗して、自分らしさを失わずに生きようと、不登校になる子供たちにこそ、日本の未来があるということを、以前読んだことがあります。私たちも内的促しに従って生きたいと思います。