なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(88)

 昨日はイースターの礼拝でした。船越教会には子ども2人を入れて、21名が集いました。礼拝後予定していた「テーマ話し合い」(私の裁判をめぐって)は、急遽取りやめにして昼食会にしました。昼食会はカレーを準備していましたが、9合のご飯しか炊いていなかったようです。二匹の魚と五つのパンの物語ではありあませんが、みんなで分け合っていただきました。昼食会後役員会があり、2011年度の諸報告と2012年度の基本方針と事業計画、予算などを審議し、4月22日開催予定の教会総会の準備を致しました。2011年度は、2010年度と比較して、礼拝出席はほぼ倍増しました。平均6名から11名強の方が日曜日の礼拝に出席しています。しかも船越教会のメンバーには遠方にいて月一回の礼拝出席の方も数名ありますので、礼拝出席者の固定メンバーは案外少数です。

 私は毎週木曜日午後3時ごろから日曜日の教会行事が終わるまで船越教会に詰めていますが、やっていることはほとんど日曜日の礼拝説教です。牧師にとっての福音宣教は、尽きるところ礼拝説教にあると言えますが、2012年度も自分なりに礼拝説教に力を入れていきたいと思っています。私はこのブログに船越教会での日曜日ごとの礼拝説教を掲載していますが、実際の教会での説教は原稿通りではありません。

 今日は、「父北村雨垂とその作品(88)」を掲載します。

                
            父北村雨垂とその作品(88)


     藍合同句集  1980年(昭和55年)10月   35句

 「人」を討つ ロゴスの錬金術師が詩(ウタ)う

 狂騒の森と 無残な風の矢と

 幻影の脚型を遂う 図式 とも

 西と東で 道化師(ピエロ)の 華麗なる 悲劇

 アラブの砂を摑(つか)んで死ねやアラブの風

 マルクスの森で トルソの叫ぶ沈黙が

 馥郁と孫娘(まご)の猊して 沈丁花

 反省はしたが 保証は何もない

 墓石に許せと 指が動くとも

 風に跨る 想いの沈む 山桅子や

 獅が去り 禿鷹が去り 月を観る骸骨(ほね)

 太陽と月に 時計を還(かえ)さねば

 鎧を脱ぐや 杜(もり)の居士(こじ)一族(たち) 太平しぐれ

 柳に花に 囁く風を 首(うな)肯(づ)く土と

 工合よく 神が仕立てた「ひと」だと聴くが

 骨壷に閉ちこめられて 欠伸まで

 君識るや 君が背に負う わびしらを

 靜い血で 獄門を描く 神の子や

 悔多き我を能面と討つべかり

 黒枠の吾れに 道化師(ピエロ)と 謗(そし)らんか

 過去帳に 居士と賜る 詩(うた) 一行(ぎょう)

 パスカルの意識を 虹のお結(むす)飯(び)に

 蒼白い苔の紋章 無縁の墓

 風と共に歩るく私に 故里(ふるさと)も

 マルクスの庭で ロマンの脚は断たれ

 しなしなと雛(ひいな)の詞(ことば) 鄙(ひな)唄(うた)を

 シャボン玉の臍で 因果の舞踊(おどり)とか

 明日(あした)さえ 見えぬ 望遠鏡なら捨てる

 太陽と乳房に銀河 還れとや

 神の子が 掌に賜るも 無精卵

 心臓は 時計も神も 埴輪と称ぶも

 修羅 修羅と いっしんに杜(もり) 風の矢に

 マルクスの杜で ロマンの脚は断たれ

 歯を鳴らしながら襲う夢 泣きながら

 雑竹の唄声に君や 鎌を研ぐ