なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

11月6日永眠者記念礼拝説教

    「目を上げる」創世記13:1-18、2016年11月6日(日)船越教会礼拝説教

・今日は永眠者記念礼拝です。いつものようにこの講壇の前には、船越教会に関係します今までに召され

た方々の写真が並べられています。今日は、これらの既に天上にある方々も、私たちと一緒に礼拝をささ

げているという思いをもって、この礼拝に与かりたいと思います。以前にお話ししたこともあるかも知れ

ませんが、私が神学校を出て最初に赴任した教会は、私が主任担任教師として招かれた時には創立からま

だ20数年でしたが、召された方が2名いて、その方の写真が礼拝堂の後ろの鴨居の上に置かれていました

ので、その二人の召された方といつも一緒に礼拝をしているように感じられました。また、教会によって

は教会員名簿の中に召天者名簿が記載されていて、今生きている者もすでに召された者も同じ教会員で

あるという認識を教会員名簿で表している教会もあると言われています。そういう意味では、信仰共同体

としての教会のメンバーは今生きている者だけではなく、既に召されて今は天上にある方々も含まれてい

ると言えるでしょう。

・さて、先ほど司会者に読んでいただいた創世記13章は、本日の聖徒の日(永眠者記念日)の聖書日課

箇所であります。この箇所は、創世記12章で、アブラハム(創世記では、17章5節でそれまでのアブラムと

いう名称がアブラハムに変わりますが、ここではアブラハムに統一させてもらいます)は、生まれ故郷と

父の家を離れて、神が示す地に行きなさいと命じられます。その時、神はアブラハムにこのような約束を

します。<わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となう

ように。/あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。/地上の氏族はすべ

て/あなたによって祝福に入る。>(創世記12:2,3)。

・このアブラハムに与えられた神の約束の言葉に従って、アブラハムは、<妻のサラ(最初はサライ)と

甥のロトを連れ、蓄えた財産のすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方に向かって出発し、

カナン地方に入った>(同12:5)のです。カナン地方にはアブラハムが来る前からカナン人が住んでしま

した。しかし、この土地をアブラハムの子孫に与えると、アブラハムに現れた神は言われました。アブ

ラハムはカナンの地を南下し、ネゲブ地方に移った時に飢饉がひどかったので、食料を求めてエジプト

に行きます。そこで妻サラを妹だと偽り、美しい妻の故に自分が殺されることを避けます。エジプトの

ファラオはサラを妻として迎え入れ、アブラハムを優遇します。しかし、神はアブラハムの妻サラのこ

とでファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせます。そこでファラオはアブラハムに妻サラを連

れて、立ち去るように命じます。

・そこでその続きとして、13章1節には、<アブラハムは、妻と共にすべての持ち物を携え、エジ

プトを出て再びネゲブ地方へ上った。ロトも一緒であった>と言われているのであります。エジプトか

ら再び約束の地カナンにやってきたアブラハムは、ロトと別れて住むことにして、ロトに先に住む場所

を選ばせます。ロトと別れたアブラハムは、改めて神による子孫繁栄と土地取得を確認し、18節で<ア

ブラハムは天幕を移し、ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに来て住み、そこに主のために祭壇を

築いた>と言われているのです。

・このようなアブラハムの物語を読んで、近代のヨーロッパ列強による植民地支配を思い浮かべる人も

あるかも知れません。その植民地支配の先兵の役割を担って、宣教師たちがアジアやアフリカや南米に

キリスト教の宣教したのであります。アブラハムも先住民のカナン人が住んでいたカナンの地に後から

やってきて、そこが神に与えられた約束の地だと主張しているわけですから、植民地支配の先兵となっ

た宣教師やキリスト教と同じではないかと見られてもおかしくありません。アブラハムに与えられた子

孫繁栄と土地取得という神の約束、見える限りの土地を与えるという神の約束は、アダムやノアの子孫

である先住者であるカナン人を無視しているように思われます。アブラハムにそのような約束をしてい

る神は、アブラハムだけを偏愛しているようにも見えます。

アブラハムの末裔であると言われるユダヤ人のシオニズムには、確かに現代史における神によるアブ

ラハムの偏愛を思わせる要素があります。現代のイスラエルの国は、パレスチナ人が住んでいた場所か

ら強引にパレスチナ人を追い出して作られたものです。イスラエル民族の父祖としてのアブラハムとい

う切り口からしますと、アブラハムが神の選びによってカナンにやってきたことと現代イスラエル国

の建設とが重なるようにも思えるからです。

・そういう意味で、アブラハム物語は解釈次第で危険な要素を持っていると言わざるを得ません。しかし、

パウロは、ガラテヤの信徒への手紙で、<「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と記

しています。だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい>(3:6,7)

と語っています。そして、<聖書(旧約聖書)は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、

「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によっ

て生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています>(3:8,9)とも語っているのです。律法

と割礼も必要であるというユダヤ主義者の主張をパウロは否定して、<アブラハムに与えられた祝福が、

キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰に

よって受けるためでした>と言っているのです。

・このパウロアブラハム理解によれば、アブラハムはあくまでも信仰の人として、先住民のカナン人

住むカナンに神の導きによってやってきたのです。ヘブライ人の手紙の著者が、<信仰とは、望んでいる

事柄を確信し、見えない事実を確認することです>(11:1)と言っているように、アブラハムは先住民の

カナン人を追い出して、自分の住む場所を獲得することが目的なのではなく、先住民のカナン人が住むそ

の土地で、信仰の人として生きるようにと神に召されているのです。また、ヘブライ人の手紙の著者が、

アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです>(11:10)

と語っているように、アブラハムが待望したのは、カナン人を追い出して子孫の土地を獲得することでは

ありませんでした。イエスに即して言えば、アブラハムも神が与えて下さった約束の地カナンで、カナン

人を追い出して、イスラエル国家を形成するためではなく、神の約束の民として神のみ心の実現成就する

神の国を求めたのではないでしょうか。

ヘブライ人への手紙には、アブラハムやサラをはじめ信仰の父祖たちは、<皆信仰を抱いて死に

ました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地

上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このような人たちは、自分の故

郷を探し求めていることを明らかに表しているのです>(11:13,14)。ここには、信仰の人は、この地上

では<よそ者であり、仮住まいの者であること公に言い表したのです>と言われているのです。そして信

仰の人であるアブラハムをはじめその父祖たちは、<もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻る

のに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を

熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都

を準備されていたからです>(11:15,16)と言われているのです。

・このような信仰の人が、どうして近代のヨーロッパ列強のように資本と軍事力を武器にして植民地支配

をするでしょうか。天の故郷である神の国を熱望して、すでにそこで生活している人々の中に入って、

「地上ではよそ者、仮住まいの者」として、柔和な人として、しかし確信をもった信仰の人として、すべ

ての人に及ぶ神の祝福を証言していくに違いありません。そのような人として、信仰の人は、神に招かれ

てこの地上の生活を送っているのではないでしょうか。

・ガラテヤの信徒への手紙の中のパウロの言葉を、もう一度想い起したいと思います。<、アブラハム

与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束さ

れた“霊”を信仰によって受けるためでした>。今日は永眠者記念礼拝を私たちは共にしています。この

写真の方々も、この地上ではよそ者、仮住まいの者として、神に与えられたそれぞれの生涯を信仰の人と

して送り、今は神に召されて神の下におられるのではないでしょうか。彼ら・彼女らと、今もこの地上に

おいて同じようによそ者、仮住まいの者として、神に与えられたこの世の時間を過ごしている私たちと

が共に願っていることは、アブラハムに与えられた祝福が全ての人に及ぶことであります。それはこの地

上に憎しみと争い・戦争がなくなり、抑圧・被抑圧、支配・被支配、さまざまな差別、貧富の格差がな

くなり、それぞれの与えられた命を豊かに生きることができる平和な世界です。神の国の到来です。

・そのような神の与え給う祝福を求め、めざして、アブラハムは長年住み慣れた生まれ故郷のハランを

出て、この地上にあっては旅人としての人生を過ごしたのです。私たちも先達の後に続いて、アブラハ

ムに与えられた祝福がすべての人に及ぶことを祈り願いつつ、それにふさわしい信仰の旅人としてこの

地上の生涯を送りたいと思います。