なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(546)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(546)復刻版を掲載します。2010年3月のものです。


         黙想と祈りの夕べ通信(546[Ⅺ-24]2010・3・14発行)復刻版


 Fさんが本当に久しぶりに教会を訪ねて来ました。インターホンが鳴って扉を開けましたら、そこにFさ

んが立っていました。彼の方からひと言、「ぶん殴りはしないよ」と言いました。その日の朝にもFさんか

らの電話を受けていましたが、私は、「久しぶりですね。Fさんが教会に来るのは何年振りかなー」と言っ

て、小集会室に案内して、一時間ほど話しました。Fさんの髪は大分白くなっていて、長髪でおかっぱ風に

変わっていました。以前現在の日赤のみなと病院に胃の手術かで入院したときに、見舞いに行きましたが、

その頃から比べますと、今の方が元気に見受けられました。「Fさんと会ってから、もう15年になります

ね」と申し上げましたら、「この教会から自分が受けた痛みは何年経っても忘れられないよ。紅葉坂教会

は差別的な教会だから、体質改善して欲しい」と、この15年間彼から聞き続けてきた言葉を、この時も聞

かされました。彼は教会だけではなく、幸福の科学にも、創価学会にも、立正佼成会にも、世界救世教

も行ったことがあるようで、その中でも立正佼成会は100円で会員証のようなものを買うと、食堂を利用で

きて、安く良質な食事ができ、ホームレスの人も助かっていると言っていました。それに反し紅葉坂教会

日本基督教団の教会はダメだと言うのです。彼は山谷で年2回発行されている「なかま」という機関紙

に毎回投稿していて、その「なかま」に掲載される自分の文章を誇りに思っています。以前は「信徒の友

」にも詩の投稿をしていて、時々採用されて信徒の友に彼の詩が掲載されたこともありました。そういう

こともあって、彼は自分を文筆家の一人と思っているようです。作曲もしています。かつて彼に投げかけ

られた「何が文学よ、生活もできないのに」という言葉が、そのような彼の自尊心を強く傷つけたようで、

今でも頻繁に電話をかけてきて、そのこと繰り返し言います。私はただ聞くだけですが、この15年間その

ようなFさんとの関わりに膨大な時間を使ってきました。私のとりえがあるとすれば、そのようなFさんと

の関わりをこちらからは切らないということだけです。私も後一年でこの教会を辞めますと彼に言いまし

たが、余り耳には入らなかったようです。紅葉坂教会の牧師である限り、私はこれからもFさんとの関わ

りを引き受けていきたいと思っています。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。今週教区婦人委員会に出席した。そこで

の話で全国婦人会連合では正典的な聖書の読み方をしている。神奈川教区婦人委員会では、そのような全

国婦人会連合の正典的な聖書の読み方だけではなく、聖書の読み方にはいろいろあるのではないかと、全

国婦人会連合を批判してきた。委員会のメンバーの一人が御殿場の東山荘で日曜学校の集会をしていたら、

別の教会の集会も行われていた。自分たちの教会では子どもたちに日頃「神さまに文句があれば、言って

もいいのよ」と言っているが、一緒になった他の教会学校のお話が聞こえてきて「神さまは間違いないか

ら、神さまにはすべて従わなければいけない」と話していたという。私自身も性差別に関わっていて、聖

書の行間を読むこと、かつての人びとがどうだったのかという想像をふくらませながら、聖書を読んでい

る。かつて子ども時代は、聖書をいい所取りして、聖書の言葉に従い、牧師の言うことに疑問を持たない

で聞いていた。一つの聖書の言葉から、その聞き方によって随分違う読み方が出来る。多様な読み方をつ

き合わせていけたらと思う。婦人会連合は正典的聖書の読み方を貫いているので、その関わりに難しさを

感じている。自分なりの歩みが問われていると思っている。

 また別の人が、私のFさんとの関わりを聞いて、同じような自分の経験と在日の女性のことを話された。  


          「去った時送られる聖霊」    3月14日


 神の霊がご自身を現されるのは、しばしば私たちがいない時です。弟子たちから去って行こうとされた

時、イエスは言われました。「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行か

なければ、パラクレートス(聖霊)はなたがたのところに来ないからである。・・・・しかし、その方、すな

わち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(ヨハネ16:7,13)と。イエス

の友人たちが、イエスの現存の意味を悟ったのは、イエスがいなくなってからでした。イエスの友人たち

がイエスの言葉を深く理解し、イエスとの完全な交わりを経験したのは、イエスがいなくなってからでし

た。彼らが信仰と希望と愛の交わりに集うことが出来たのも、イエスがいなくなった後でした。

 私たちがイエスのみ名によって友人たちのもとを訪ねる時、すなわち私たちを通してイエスが友人たち

のそばにおられるようになる時、私たちは自分たちが去って行く時、イエスの霊が来られることを思い心

を休めることが出来ます。したがって、私たちが共にいることばかりではなく、いないこともまた、他の

人びとへの贈り物となります。
 

                  (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)