なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(457)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(457)復刻版を掲載します。2010年3月のものです。


        黙想と祈りの夕べ通信(547)[Ⅺ-25]2010・3・21発行)復刻版


 昨日(16日)大阪教区社会委員会の集会に講師として呼ばれて行ってきました。集会後に20名ほどの方

が残って会食しながら懇談の時を持ちました。その時一人の若い牧師が私に以下のようなことを聞いてき

ました。自分は説教をできるだけ専門用語を使わずに、日常の言葉で話すようにしているので、毎回毎回

産みの苦しみをしている。何とかイエスの福音を会衆に伝えたい。どうしたらできるでしょうかというの

です。その問いを聞いて、こういう若い牧師がいることを知って、嬉しく感じました。私の説教の言葉は

あまり日常語になっていないところがありますので、この若い牧師の姿勢にむしろ感心したくらいです。

彼の問いに私が答え得ることはほとんど一つのことです。それは、イエスの福音は伝えようとして伝えら

れるものではないということです。聖書を読んで自分が感動したこと、揺り動かされたこと、イエスの福

音とはこのことではないかと思わされたことを、説教では証言として語ることではないか。そしてその語

ったことに責任を持って自分が生きる、その生き様を見てもらうほかないのではないかということです。

私はそのことをお話しました。集会に来ていた人の中には比較的若い人も何人かいて、私に問いかけてき

た人のように、悩みながら現実と聖書との狭間で自分なりに格闘していってくれることを願いました。そ

ういう若い人たちが数は少なくても続いていることに、私は何とも明るい気持ちにさせられました。

 上記の私の発言に続いて、一人の方の発言がありました。音楽に関することをひと言。3月5日に霊南坂

教会で芸大のオルガンのコンサートがあった。Aさんも演奏した。北村先生も来ていたが、自分も行った。

普段あまり聴かないオルガンのコンサートを聴くことができてよかった。翌日ロック系の友人のコンサー

トがあった。お祝いを兼ねてそのコンサートに行った。クラッシックのコンサートだと、からだが自然に

動いて躍動すると、周りから白い目で見られるので、自分は行くのを躊躇する。3月6日のロックのコンサ

ートはくつろいで打ち解けた感じだった。バッハもベートーベンも同じではないか。日本のクラッシクは

学術論文のようなもととして聞く感じだ。聴衆の中にはいびきをかいたり、寝てしまって口からよだれを

出している人もいることがある。休憩時間にショパンのことを話して、その自主独立がどうこうと自分の

特権的な知識をひけらかしている人がいたが、音楽を聴くということは、その美しさにしたっていくこと

が重要なことではないかと思う。

 続いてもう一人の方の発言がありました。この分かち合いで、悪法との誉れ高い「障がい者自立支援法」

民主党のマニュフェストでは廃止を謳っている。代わりの(仮名)「障がい者総合福祉法」について話

そうと思ったが、通信のナウエンの言葉を読んで、ドキッとさせられたので、そのことを話したい。ナウ

エンは「私たちがイエスのみ名によって友人たちのもとを訪ねる時、すなわち私たちを通してイエスが友

人たちのそばにおられるようになる時、私たちは自分たちが去って行く時、イエスの霊が来られることを

思い、心を休めることが出来ます。したがって、私たちが共にいることばかりではなく、いないこともま

た、他の人びとへの贈り物となります」と言う。その人のためにと思って話しているが、おせっかいな自

分は、その人のためというよりも、自分が言いたくて話している自分を発見することがある。専門学校の

卒業の時校長から、本当の親切はあなたが何でもする事でなく、あなたが去っても誰も困らないようにし

ておくことが大切だ、との話を思い出した。自分は子育てにもそれを適用して自立させるためと手を抜く

ために利用した。ナウエンの言葉のように、私が去った時に、その人に働いてくれるものがあるというこ

とを思って、今後の歩みを考えていきたい。

また別の方の発言がありました。日曜日には自分の就任式をいていただいて、嬉しかった。しっかりしな

ければと決意を新たにしたが、さっそく今日の聖書研究会に原稿を忘れ失敗してしまった。責任を持って

行動できるようにしたい。先日沖縄でホームレスの人が遺骨収拾をしているという話をテレビで知ったが

、1ヵ月後にその後のことが放映された。178体の遺体が収集されたという。沖縄戦の傷も癒えないのに、

新たな問題を抱えている沖縄の人に、隣人としてではなく加害者として対すべきではないか。 


             「私たちが聖なる存在であること」   3月21日

 
 私たちは、自分自身の友だちでしょうか。自分自身のありのままの姿を愛していますか。これはとても

重要な問いです。というのも、自分自身の友となることなしに、他の人々とよい友情を育てることは出来

ないからです。

 それでは、どうしたら私たちは自分自身の友となることが出来るのでしょうか。私たちは、自分自身の

真実を認めることから始めねばなりません。すばらしくもあり限界もある、富んでいると同時に貧しくも

ある。私たちは寛大でありながら自分自身の安全を気にしている。そしてこれらすべてを超えて、私たち

は魂のある人間であり、聖なる方について語ります。私たちの真実を認めるということは、私たちが聖な

る存在であることを、十分に理解することがないとしても、認めることです。私たちの存在の最も深い部

分は、私たちの精神や感情の支配の及ばないところにあります。しかし、私たちの魂を、愛の神が受け入

れてくださることを信じる時、私たちは自分自身の友となり、愛の交わりの内に他の人々に手を差し伸べ

ることができるでしょう。
 

                   (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)