なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

イエスによって語る神(クリスマス礼拝説教)

「イエスによって語る神」ヘブライ1:1-6、2017年12月24日(日)クリスマス礼拝


・今年は、クリスマスがいつの間にか来てしまったという感じがします。大分年齢を重ねたので、時間が

変化に富んだ豊かさをもって感じられなくなっているのかもしれません。でも今日は確かにクリスマスの

礼拝です。皆さんと一緒にクリスマス礼拝を共にすることが許されたことを、まず感謝したいと思いま

す。

・一昨日、船越教会に来ましたら、郵便物の中に関田先生のお手紙がありました。船越教会から送りまし

た贈り物への感謝として、クリスマス献金と共に私信が同封されていました。その中にこのような一節が

ありました。「いよいよクリスマスが近づいて参りました。今この社会は全くクリスマスにふさわしくな

い状況にありますが、外面的にはやたらにイルミネーションが飾られているばかりです。電力不足を理由

原発再開を企てている人がいる時に、このイルミネーションは全く無駄遣いだとしか思えません(実は

船越通信にも書いたと思いますが、私は連れ合いと相模湖と読売ランドのイルミネーションを観てきまし

た)。しかも米国大統領がエルサレムイスラエルの首都とする発言は、キリスト者の良心としても認め

ることは決して出来ない。世界の対立と敵意の深化を増すばかりの発言です。アメリカはこのクリスマス

をどのような思いで迎えるのでしょうか」と記してありました。

・私が、特に今年はクリスマスがいつの間にか来てしまったという感じを持ちましたのは、関田先生が

おっしゃるように、現実の世界が余りにもクリスマスにふさわしくない状況だからではないかと思いま

す。先日の説教でも紹介しましたように、ある統計では<2010年の世界総人口69億人の中で、キリ

スト教信者は21億8000万人と32%を占める>と言われています。でもアメリカの状況が示してい

るように、キリスト教信者が多くいるから、平和な社会になるとは限りません。キリスト信者の心の平和

が現実世界の平和を造り出す力になるかどうかは、キリスト教ローマ帝国の国教となってからのキリス

ト教の歴史を見る限り、はなはだ疑わしいからであります。キリスト教も関田先生の言われるイルミネー

ションのようになってしまっているのかも知れません。

・けれどもイエスの誕生を祝うクリスマスの出来事は、<暗闇の中に住む民は大きな光を見、/死の陰の

地に住む者に光が射し込んだ」(マタイ4:16)と言われる出来事です。現代的に言えば、国家と資本が支

配する暗闇の社会、死の陰の地に住む私たちは、国家や資本の力によって翻弄されているわけです。その

ような私たちに光が射し込んだというのです。イエスの誕生を祝うクリスマスがそのような出来事だから

こそ、国家や資本に支配されている今の世界の状況がクリスマスにふさわしくないと言えるのではないで

しょうか。

・私の支援会で10月に開催しました東京と大阪の出前集会の報告を中心に最近通信第20号を出しました。

その中で隠退牧師の村山盛忠先生の講演の記録が掲載されています。村山先生はその講演の最後で、「今

日の教会(教団)の宣教の課題」を問題にしていますが、そこで、村山先生は日本基督教団の戦時下の戦

争協力に触れて、「教団、教会の現状を振り返るとき、教会の信仰が決定的に欠落していると考えてい

る」とおっしゃっています。そして、<歴史的にキリスト教が日本に入ってきたとき、個の自覚に目覚め

たことは事実でしょう。伝統的に家族制度に縛られ、地域や風習に縛られてきたわれわれにとって、当時

も現在も、個の自覚を確立するということは必要条件です。福音の根幹にかかわる問題でもあります。し

かし教会の戦争責任の問題に関して、教会は「教会の信仰」を発言しなかった、またできなかった>と。

そして現在の教団や教会の課題として、<教団の戦争責任問題と真摯に向き合い教会の信仰を生み出す課

題があると思っています>と言って、このようにお話しされています。歴史的なキリスト教に制度的な教

会と別の運動として修道院運動があったように、現在の教会にも制度的な教会の他にもう一つのムーブメ

ントが必要であり、そういうムーブメントはいろいろなところに生まれているのではないか。関西労働者

伝道委員会(関西労伝)もその一つで、各地に生まれている制度的な教会とはちがった教会のもう一つの

ムーブメントを繋げていく必要があるのではと、提言されています。そして関西労伝が最近出した60年史

『イエスが渡すあなたへのバトン』発刊を覚えて行われた関西労伝の年次報告会で話された、現在の専従

者の大谷隆夫さんの発言を紹介し、それが私たちの共通の課題ではないかとおっしゃっています。大谷さ

んは、60年史に寄稿している犬養光博さんの文章の中にある一文を引用して、「『関西労伝』の存在意味

は、消される側に立ち続けて、国や資本に抵抗し続けることにあると、ますます思う」とおっしゃったと

いうのです。国や資本によって消される側に立ち続けて、国や資本に抵抗し続けることこそ、現代の教会

の宣教の課題ではないかというのです。現在国や資本に消される側の代表的な人々が沖縄や福島の方々で

はないでしょうか。

・そしてそれはイエスのめざしたことであり、その課題を引き継ぐことは、『イエスが渡すあなたへのバ

トン』ではないかと言うのです。イエスは当時のローマ帝国が支配していたユダヤの国で、国や資本=

(すなわち)お金で消される人びとの側に立って、それらの力に最後まで抵抗して、十字架の人となったの

です。ただイエスは政治的に国や資本に抵抗したのではありません。苦しむ人、傷ついている人、悲しん

でいる人の友となって、そのような人々を、一人の大切な尊厳を持った友人として、彼ら彼女らと共に生

きられただけなのです。それが結果的に国や資本の力を絶対化することなく、またユダヤ教国家という宗

教国家と言える、当時のユダヤの国の支配宗教としてのユダヤ教も絶対化することなく、人びとに絶対的

な力として迫って来る国もお金も宗教にも抗って、一人一人の神によって与えられた命の尊厳を何よりも

大切にされたのです。

・クリスマスは、そのようなイエスの誕生を祝う時です。私たちの実感では、今の世界の状況は、そのク

リスマスにふさわしくない状況にますますなっていくように感じられるかも知れません。もしそうである

とするならば、私たちは、今ここで、イエスの誕生を祝うクリスマスを心から祝わなければならないので

はないでしょうか。イエスの誕生を祝い、喜び、「イエスが渡すあなたへのバトン」を受け取って、イエ

スと共に、イエスが何よりも大切にされた一人一人の命の尊厳を、特に今も国や資本によって消されて行

こうとしている人々の側に立って、大切にしていかなければならないのではないでしょか。

・先程司会者に読んでいただいたヘブライ人への手紙1章1~6節は、クリスマスの聖書日課の一つです。

ここには、「神は御子イエスによって語られた」ということが記されています。ここから今日の説教題

「イエスによって語る神」にしました。<神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多く

のしかたで先祖に語られましたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神

は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました>(1:1,2)。御子イエ

スによって語られた神は、御子イエスによって新しい世界創造をされたというのです。この新しい世界創

造は、神の国と言い換えてもよいでしょう。そのことを信仰によって望み、その見えない事実を信仰に

よって確認するのだと、この著者は言うのです(11:1)。

・また、この著者は、11章でその信仰の証人である旧約聖書のさまざまな人物を挙げた上で、12章1節以

下でこのように語っています。<こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群

れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分の定められている競争を忍耐

強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら>(12:1,2)

と。<すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて>とは、私たちにとっては<国や資本の力に絡め取ら

れることなく>、<自分の定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者

た完成者であるイエスを見つめながら>と言い換えてもいいでしょう。

・クリスマスにふさわしくないこの現代の世界の状況において、クリスマスにふさわしい、この現実の世

界の状況においては、見えないかもしれませんが、イエスにある私たちの望みを捨てずに、自分の与えら

れた場で、様々な人との関係を引き受けて、一人一人が神によって与えられている尊厳を大切に生きてい

くことができるように力を注いでいきたいと思います。