なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(27)

船越通信№27   2011年10月16日     
 
     109日の礼拝後にテーマを決めた話し合いの会がありました。今回は「福音とは何か?」というテーマでHさんが発題してくれました。〈福音とは何か〉はイエス誕生物語によく示されている。本田哲郎さんは、福音は「人を元気にさせる」と言う。聖書では、イエスの生涯を通して、言葉以上に働きを通して福音がすべての人に与えられている。人間を通して神が働く。祈りは行動を起こし本当の祈りになる。〈教会に何を求めるか〉。自分の救い、罪の赦しを求める。教会に来ても救われない。自分には自分が罪人という認識が余りない。解放や救いの手ごたえがない。何も答えられないのが正直な思いである。〈社会的な関心が強い教会〉は、弱い人を排除しないか? 弱い人に対する対応は、自分がいったことのある「福音派」の教会の方がよいように思える。社会的関心が強い教会に来ている人の多くは、支援する側にいて、元気でなければいられない。そういう教会で弱さを出していけるだろうか。最近考えが変わってきた。去年ある集会に出て、聖餐が話題となり、S牧師がある教会のことを紹介された。野宿者が多く教会の礼拝に参加しているが、一緒に聖餐に与る。そこにイエスがいると話されたが、そのように感じた。その頃、母が召される直前で厳しかった。イエスが「わたしがここにいる」と言っているように思えた。そのことから、私たちが、苦しみに共感してその人と一緒に歩むとき、イエスに出会えるのでは思うようになった。教会の外にイエスがいる。私たちが弱くなると、一緒にいて支えていてくださるイエスに出会えるのかもしれない。
     以上Hさんの発題を、私が自己流にまとめてみました。以下それぞれの主な発言を羅列しておきます。・ 問題は自分の立ち位置ではないか。・ 人を介して心に響く、直感として感じられる事柄を福音と考えたい。・ 自分は自己中で罪人であり、イエスを十字架に付けた人間だが、それでも生きていていいのだというメッセージが福音ではないか。・ 福音とは、イエス・キリストのすべてである。・ 教会に何を求めるかではなく、教会のために何が出来るかではないか。・ 四つの福音書は、それぞれイエスのメッセージを自分たちの視点から捉えて述べている。現代の混沌として社会に影響を受けている我々が、いかにイエスの生き方と突き合わせていくかが、私の福音の捉え方である。・ 社会的関心の強い教会は弱い人を排除できないのではないか。・ 福音とはイエスの生きざまである。・ 教会とは、自分にとって自分のブレを確認する場である。
     以上、私なりの独断的なまとめです。しかし、それぞれの発言にはひとつひとつ大切な問題・課題が示されていますので、それぞれ自分なりにこれからの歩みの中でゆっくりと反芻していけたらと願います。私達は、最後まで求道者ですから、現実社会の中でイエスを追い求めていきたいと思います。パウロではありませんが、そういう私達がイエスによって捕らえられていることを信じます。「わたしたちは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全になっているわけでもありません。何とかして補らようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえれているからです」(フィリピの信徒への手紙312節)。
     1010日の祝日には、教区のオリエンテーション委員主催、基地・自衛隊問題小委員会・核問題小委員会共催の「原子力空母の危険性(ビデオと講演)と基地見学」が横須賀で行われました。約50人の参加者があり、2基の原子炉を積んている空母が横須賀を母港としているということが、どういうことなのかを、講師の「原子力空母母港化の是非を問う住民投票を成功させる会」の呉東正彦弁護士が熱く語ってくれました。基地見学ではチャーターした船で、横須賀で市民運動を長年続けている方から丁寧な説明をしていただいて米海軍と日本の海上自衛隊の沢山の艦船が停泊していた横須賀港を回りました。
     1011日には私の裁判の訴訟委員会があり、最終的な訴状がほぼまとまり、いよいよ提訴の時期が近づいてきました。その前に教団側に戒規免職処分撤回の意志を確かめるために、私の方から10月末までに回答を求める文書を出しました。1013日には事務局会議が行われ、提訴に伴う支援会の立ち上げの準備をしました。
1016日の説教は、マルコによる福音書616節前半から「この人は、大工ではないか」と題してメッセージを取り次ぎました。故郷というものは、人を優しく受け入れてくれる反面、異質な者を厳しく反発するところです。町や村で放浪しながら教えを語り、病人や悪霊に憑かれた人を癒し、律法学者らと対立する公生涯の突出したイエスに、故郷ナザレの人たちは躓きます。自分たちと変わらない、否自分たち以上に小さな家族の出であるイエスが、どうして人々が噂している智恵や力があるのか。ただの自分たちと同じ人間ではないかと。まるでイエスには神が宿っているようだ。天にいらっしゃる聖なる、怖れおおい、遠くに存在する神が、イエスに宿るなんてあり得ない。そういう思いが故郷ナザレの人びとにはあったのでしょう。そのような故郷ではイエスは力を発揮できなかったと言われます。イエスは「アバ父よ」と祈り、神共にいたもうという信頼に生きていました。そのイエスには、ただの人として私たちと同じようにこの世の秩序の影響支配が及びますが、イエスには同時に神共にいたもうという信頼による神の命が豊かに与えられています。むしろ、神の命に生きるイエスは、この世の秩序の影響支配を突き破って神の国の義と平和と喜びを私達に啓示します。そのイエスによって、私たちは、神の命によって生きる人間が様々な人間関係の中でどのような道を進むのかということも明らかに示されます。「人の子がきたのは、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」(マルコ10:45)。イエスによって私たちの歪みが明らかにされ、人間として本当に大切な仕え合う生へと招かれているのではないでしょうか。