なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(76)

        使徒言行録による説教(76)、使徒言行録20:25-38
               
ヨハネによる福音書には14章から16章までイエスの告別説教が記されています。十字架を前にして、イエス

は自分の死を予測したのか、弟子たちに遺言を語るかのように、別れの説教をしたというのです。「心を騒が

せるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」(14:1)という言葉で始まり、「これらのことを話

したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇

気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(16:33)という言葉で終わっているのが、ヨハネによる福

音書のイエスの告別説教です。

・そのイエスの告別説教と同じように、今日の使徒言行録の箇所では、パウロがミレトスでエフェソの長老た

ちに別れの説教(決別説教)をしているのであります。この後、パウロエルサレム教会を訪ね、献金を渡し

てから、ローマに行き、さらにローマの教会の支援が得られれば、未開の地イスパニア(スペイン)に福音宣

教をしたいという計画を立てていました。ですから、ミレトスでエフェソの長老たち会っているのは、この地

上では最後の機会で、ローマに行けば、再びこの地に帰ってくることはないと、パウロは思っていたからです。

ですから、25節でパウロは、「あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かって

います」と言っているのです。

・そこでパウロは、これまでの自分の働きを振り返り、自分としては最善を尽くして福音宣教の働きを担って

きたので、この地においては自分のやることはもう何もないと言っているのであります。<わたしは、神の御

計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです>(27節)と言われている通りです。この27節の前

の26節の言葉は、ただ読んだだけではよくわからないかも知れません。<だから、特に今日ははっきり言いま

す。だれの血についても、わたしには責任がありません>という言葉です。このところは田川さんの訳ですと、

<この故に、今日の日に私は、私がいかなる人の血からも清いということを証言しておく>となっています。

そして田川さんはこの箇所の注解で「ここは、もしも人々がパウロの福音を受け入れないで、神によって罰せ

られることになり、永遠の生命を失うことになるとしても(=血)、私はすでに十分に福音を宣べ伝えたのだ

から、私の責任じゃないよ、と言っているだけ」だと説明しています。

パウロの福音宣教の働きは、当時のギリシャ・ローマ世界の中の比較的大きな都市に信徒の集まりである教

会を設立することでした。そしてその教会が拠点となって、その都市の周辺に福音を宣べ伝えていくことを、

パウロは期待したようです。ですから、一つの都市に教会が誕生し、その拠点ができると、後はその教会に任

せて、自分は次の宣教の地である新しい都市に移動していきました。そして地の果てまで福音を宣べ伝えると

いう福音宣教の戦略を頭に描いていたようです。

・第三伝道旅行の途中のミレトスでエフェソの長老たちを呼び寄せて決別説教をしたのは、パウロとしては、

既にアジア州マケドニア州、アカイア州の諸都市に福音を宣べ伝え、諸都市に信徒の集まりとしての教会を

設立したので、この地での自分の働きはもうこれで十分だと考えたからでしょう。後はエルサレム教会を訪ね、

献金を持って行き、パウロが設立した非ユダヤ人中心の諸教会のことをエルサレム教会にも認めてもらって、

ローマに行くと決めていたのでしょう。エフェソの長老たちに、<どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気

を配ってください>と、自分が去った後のことを頼んでいるのです。そしてパウロは、エフェソの長老たちを

神がその働きに任命したと言っています。<聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会

の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです>(28節)と。

・このところで信徒の集まりとしての教会が、「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」と

言われています。田川訳では、<神は教会を自らの血によって確保なさったのである>と訳されています。教

会は信徒の集まりですが、その信徒の集まりは人間の側から形成されただけではなく、神が自らの血によって

確保した神の教会、つまり神によって召された者たちの集まりであるというのです。これがパウロの、また使

徒言行録の著者ルカの教会に対する信仰でした。エフェソの長老たちは、その教会に仕える監督者・指導者と

して、信徒の集まりである教会が神の教会にふさわしくあるために神に召されているのだと、パウロは語って

いるのです。

・<神は教会を自らの血によって確保なさったのである>。信徒の集まりをしての教会を、私たちはそのよう

な神の教会として信じているでしょうか。パウロは少なくともそのように信じていたに違いありません。神が

自らの血によって確保なさった教会であるとすれば、その教会を襲うあらゆる誘惑試練から守って、神の教会

として存立させるのも、神ご自身であると言えるでしょう。私たち自身の信仰の力というよりも、神ご自身か

ら与えられる恵みの力以外の何物でもないでしょう。私たちは、今日、船越教会という信徒の群れの一員とし

て、この<神が自らの血によって確保なさった>神の教会に連なっていることを見失ってはならないと思うの

であります。この船越教会が神の教会であるとするならば、神ご自身とその恵みの言葉によって、私たちは造

り上げられ、私たちと同じように神の教会に加えられた人々と共に、この船越教会は、何よりも神の恵みを受

け継ぐ者の集まりであると言えるでしょう。

パウロは、何よりも神とその恵みの言葉に信頼を置いておりました。自分が去った後、神の教会に仕える監

督者・指導者としてエフェソの長老たちはが、このことをわきまえて、御言葉への信頼に立ち続けてくれるこ

とを祈り、願い、期待したのです。自分が3年間エフェソで働いたことも、正にただそのことのためだったと、

パウロは言います。だから、私が去った後、教会の外部からも内部からも、神への信頼をゆるがす様々な教え

や力が襲ってくるだろうが、<わたしが3年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思

い起こして、目を覚ましていなさい>(31節)と勧めているのです。

パウロがエフェソの教会の一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことは、何よりも信仰者が信仰者とし

て存在せしめられる根源の命は何かということです。自分たちの力や信仰によってではなく、私たち人間の強

さや弱さを超えて、信仰者を<造り上げ>る神ご自身の御業への信頼です。<そして今、神とその恵みの言葉

とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵

みを受け継がせることができるのです>(32節)と言って、神への信頼が教会を襲うすべての患難を乗り越え

ていく命の力であることを、はっきりと述べているのです。

使徒言行録の著者ルカは、ミレトスにおけるパウロの決別説教をこのように記していますが、更にパウロ

一つの勧めについて記しています。パウロは自分の生活の糧を自分で働いて稼ぎながら、他の人に依存するこ

となく、自分の宣教の働きを続けて来たことを語っています。そして、イエスが語ったと言われる<受けるよ

りも与える方が幸いである>という言葉を思い出すようにと言い添えて、<あなたがたもこのように働いて弱

い者を助けるように>と勧めているのです。<わたしはいつも身をもって示してきました>(35節)とも言って

います。

・「受けるより与える方が幸いである」という言葉を、実際にイエスが語られたのかどうかは、福音書の中に

はこの言葉はありませんので、よく分かりません。この言葉は、読み様によっては、<受けて>しか生きるこ

とができない人々にとっては、差別的な言葉に聞こえるのではないでしょうか。<あなたがたも、このように

働いて弱い者を助けるように>というパウロの勧めも、弱者を対象化しているように思われます。全て人が受

けたものは、共に分かち合うためではないでしょうか。

・「永遠の命を得るためには何をしたらよいのでしょうか」とイエスに問うた富める者に対して、イエスは、

「あなたの財産を貧しい人に施して、私に従ってきなさい」と言われました。この富める者は悲しみながらイ

エスのもとを立ち去ったと言われています。この富める者は、人は神から命与えられて生かされて生きている

者であるならば、神のもとにあって対等同等な他者と共に生きる者なのだということを見失っていたのではな

いでしょうか。そうであるとすれば、強い者、弱い者という風に人間を区分けして、「受けるよりも与える方

が幸いである」ということは、神のもとにある人間の真実からは外れているように思われます。

・全て受けたものは共に分かち合うためのものであるとすれば、<受けるより与える方が幸い>なのではあり

ません。受ける者も与える者も、共に分かち合う者として幸いなのではないでしょうか。この<受けるより与

える方が幸いである>という言葉をイエスが語ったとするながらば、イエスも強者の論理に立っていることに

なります。パウロにはこの強者の論理があったのかもしれませんが、イエスにはそのような強者の論理がある

とは、福音書のイエスの物語をよく限り、考えられません。教会の監督者・指導者たちの勧めということで、

パウロはこの言葉を語ったのかもしれませんが、この点については批判的に読み直したいと思老います。

・さて、パウロは決別説教を終えて、<皆と一緒にひざまずき祈った>(36節)と言われます。<人々は皆激し

く泣き、パウロの首を抱いて接吻した>と言われます。また<特に、自分の顔をもう二度と見ることはあるま

いとパウロが言ったので、非常に悲しんだ。人々はパウロを船まで見送りに行った>(38節)と記されていま

す。この地上での生活における他者のとの決別は、誰もが経験しなければなりません。けれども再び会うこと

がないパウロとエフェソの長老たちとは、「主に在って一つ」なる信仰で結ばれていたのではないでしょうか。

この「主に在って一つ」なる信仰は、私たちにとっては信仰者であろうとそうでなかろうと、すべての人にお

いて信じることが許されている恵みではないでしょうか。そのことが明らかになる最後の日を望み見ながら、

パウロとエフェソの長老たちは、その決別に激しく泣きながらも、神と神の恵みの言葉への信頼を持って、終

わりの時をめざして神にある希望を分かち合ったのではないでしょうか。

・私たちも、神と神の恵みの言葉であるイエスに信頼して、イエスの平和の福音を他者と共に共有すべく宣教

の業に励んでいきたいと思います。

(☆ 明日は大阪で、明後日かえりますので、このブログはお休みします。)