なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(477)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(477)復刻版を掲載します。2008年11月のものです。

 以下には、2008年の教団総会での44号議案(議長・常議員会による教師戒規申立無効)可決

により、私たちがどんなにほっとしたかがよく現れています。これで戒規の問題は終わればよかった

のですが、この後の現教団執行部によるボタンの掛け違いが悔やまれます。私としては、この段階に

まで戻らない限り、どう考えても私の戒規免職問題の解決はないように思えるのですが・・・。


        黙想と祈りの夕べ通信(477[-06]2008・11・9発行)復刻版


 先日開かれました役員会では、今回の私の問題で教団総会議案第44号「戒規申立て無効の件」が可

決され、さし当たって私が教団教師の資格を失うという方向には進まなくなりましたので、議案44号

の提案者になってくださった西中国教区議長の柴田もゆるさんはじめいろいろご心配頂いた教会や個

人の方々、署名をしていただいた方々への感謝の手紙を出すことにしました。以下がその手紙の内容

です。

<主の御名を讃えます。

 第36回教団総会に於いて「北村慈郎教師に対する戒規申し立を行う件」の無効を確認する件が僅

差で可決されました。その時、会場は地響きのようなどよめきが沸き起こり、感動の拍手が鳴り止み

ませんでした。教団執行部の強引な教団運営に抗議し、北村牧師に対するお支えをいただいた多くの

方々に、言い尽くせない感謝の気持ちを紅葉坂教会員一同からお伝えいたします。

 教団の現状から見て、取敢えず一つの壁を取り払った一歩に過ぎないということは認識しています。

しかし、紅葉坂教会員にとっては、まことに大きな一歩でありました。御言葉を捜し求めることが、

教団議長から断罪され、牧師が糾弾されるということの前で、教会員にできることは、限られていま

した。広汎な皆様が、問題を共有し、声明をだし、抗議の文書を送り、署名運動を起こし、カンパを

し、励ましの手紙を下さり、などなどの支援をどんなに有難く受け取ったことでしょうか。それらの

支えがなかったら、教会は耐え抜いていくことができたかどうかわかりません。 
          
 今後も、お力添えを賜りますように、心よりのお礼と共にお願いを申し上げます。 
                            
                                   紅葉坂教会役員会 > 

 今回のことでは私自身はほとんど揺れることはありませんでしたが、それでも戒規申立て無効の件

が可決されてほっとしたのか、その後少し疲れが出てきたように思えます。でもなかなか休んではい

られそうにありません。

 11月4日の常置委員会は1時間もかからずに終わりましたが、その中で議長は去る教団総会で廃案に

なりました神奈川教区総会決議議案「聖餐のあり方について慎重かつ十分に議論する場を教団内に設

置する件」の常議員会への再提案を教区として2月教区総会に出すかどうか常置委員会に諮り、それ

が通りました。これで聖餐の論議の場を教団に設置する件は、教区から再提案することになるでしょ

う。私はもともと教区や教団には距離を置いて、余り関わらずに6年前まではやってきました。一個

教会を場に教団成立及び70年問題(戦責告白からはじまる万博・東神大問題、教師検定問題、合同の

とらえなおし等)からの問いかけにどう応えていけるのかという問題意識を持続させつつ、どういう

キリスト者、どういう教会をめざしたらよいのかを模索してきました。護教的な意味での教会の再生

産ではなく、イエスの生と死と復活の出来事によって再生産される群れとしての教会をどうしたら産

み出せるのかということで、努力してきたつもりです。このところ思わぬ形で、そういう私のやって

きたことに関心をもってくださる方もあって、この夏以来2度ほど、関西神学塾と教会と聖書が開催

した夏期合宿と、10月はじめの聖餐を考える会の出版記念シンポジウムで話をする機会が与えられま

した。何れ夏期合宿で話したことは小冊子になると思います。聖餐を考える会の出版記念シンポジウ

ムでも私の発言に興味を持ってくださる方もあって、今私の教会観・教会論をまとめてみないかとい

うお話をある出版者の方からいただいています。ここ数年の教団教区との関わりの中で、現在の教会

の状況にいろいろな面で触れるにつけて、私がやってきたことを文章化してみなさんの批判に晒すこ

とも意味あることなのかもしれないと思うようになってきました。この私の思いが単なる錯誤でない

かどうかよく吟味した上で結論を出していきたいと思っています。

        
   
      「短い生涯を生きた聖徒たち」         11月9日


戦争や飢餓、エイズ、路上での暴力、また、肉体的、精神的に放置されることによって多くの人々が

若くして死んで行くのを目の当たりにする時、そのように死んで行った人々の短い人生は一体なんだ

ったのかと考えることがよくあります。目標に到達する前に、夢を実現する前に、与えられた役割を

成し遂げる前に、彼らの人生の旅路は切断され、奪い取られてしまったように思えます。けれども、

たとえ彼らの人生が短いものであったとしても、若くして死んでいった人々は、時と場所を超えた、

広大無辺の聖徒の交わりに連なっています。これらの聖徒たちは、十字架につけられたキリストの勝

利を告げる白い衣を着た小羊の玉座の回りに立っています(黙示録7:9参照)。

 イエスを亡きものとするためにヘロデ王によって虐殺された、いたいけな子どもたちの物語が聖書

に記されています。このことは、聖徒らしい姿は、長生きをして、よく働いた人々にだけ見出される

ものではない、ということを私たちに思い出させてくれます。ヘロデによって殺された嬰児たちも、

若くして死んだ多くの人々もまた、英雄的な行いを成し遂げた人々と同じようにイエスの証し人です。

 
                  (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)