なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(476)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(476)布告版を掲載します。2008年11月のものです。


          黙想と祈りの夕べ通信(476[-05]2008・11・8発行)復刻版


 10月21日(火)から23日(木)まで池袋のホテルメトロポリタンで第36(合同後21)回教団総会が開かれ

ました。今回は私の教師退任勧告及び戒規申立てのことで、教団総会でどうなるかと思っていました。戒規

申立て無効の議案が否決されますと、私の処分の方へ進んでいきますので、そうなるとなかなか大変だと思

っていました。私個人だけでなく、紅葉坂教会も、また、同じように開かれた聖餐を執行している牧師、教

会まで影響が及びますので、何とか戒規申立て無効が可決されないかとひそかに思っていました。最初勧告

取り消し、撤回の三つの議案がすべて否決されましたので、その段階で戒規申立て無効の議案も否決される

のではないかと、覚悟は決めていました。ところが、三日目の午前中でこの議案の審議が終わり、採決は無

記名投票により昼休み後にするということになりました。勧告の議案の時には総数356前後賛成167乃

至は161で否決でした。戒規申立て無効の議案の採決の時には、お昼休みで遅れた議員もいたのでしょう。

総数は326で賛成167により可決ということでした。何だか不思議なことが起こったとしか言いようが

ありません。こういうときに「聖霊が降った」とか「風が吹いた」というのでしょうか。私は余りそういう

言い方はしませんが、偶然とは言え、私にとっては予想外のことが起きました。ということで、今後私の問

題は私の教師職の停止や除名の方には進まないことになりました。ちょっとホットしています。けれども、

今度の教団総会では合同のとらえなおしへの取り組みの議案が否決されましたし、同性愛差別・マイノリ

ティー差別を教団が真摯に向き合い、宣教の課題としてこの問題に取り組むという議案その他11議案が審議

未了廃案にされてしまいました。喜んでばかりはいられません。今回も常議員の一人に選ばれましたので、

これからの2年間自分のできることはしていきたいと思っています。

 上記の私の発言に続いて、一人の方の発言がありました。今度の北村牧師の問題は教団全体の問題であっ

たが、去る日曜日には教会の空気が一変した感じだった。神さまの祝福を讃美したい。この一年間は北村先

生にとっても教会にとっても得難い一年であった。戒規申立て無効が可決という結果が出てからの気持ちは、

それまでとは全然違う。重荷の感じが大分ちがう。これにより何かを力につけたように思う。

 また別の人からの発言がありました。教師退任勧告が起こってから、自分は余り心が揺れることはなかっ

た。神さまがよきにはからってくれるだろうと余り悩まなかった。けれども、「教団内諸教会の信頼関係を

守り、真実の対話の道を確保する件」(議案 未受洗者への配餐等を行い、教憲教規に言い表されている教

会のあり方を否定している教師は、教団三役、常議員、常設委員としてふさわしくないことを確認する。)

という57号議案にはショックを受けた。今度の教団総会も3日間傍聴した。総会が終わった時に、いろいろ

な方からオメデトウと言われた。けれども、自分はそういう気持ちにはなれなかった。むしろ同性愛差別・

マイノリティー差別にかかわる議案や宣教150年記念集会についての否定的な議事などを上程せず、すべて

廃案にしたことに怒りを覚えた。継続か常議員会付託にしてくれればよいのにと思ったからである。第33回

総会の時に、沖縄教区から出されていた「名称変更議案」等が審議未了廃案にされた時と同じ怒りを覚えた。

傍聴席を見ると、廃案に涙を流していた人もいた。教師退任及び戒規申立ての問題は、牧師の問題であり、

教会の問題なので盛り上がるが、それぞれの議案に思いを託していた人たちにとっては、その議案が廃案に

されてしまったことはどんなにつらいことだろうか。どの議案も大切に思っていたので、自分のことだけよ

ければというわけにはいかない。また、退任勧告取り消しの議案が否決されたときに、神奈川教区のある人

が拍手をした。隣にいた人がその人をたしなめた。一人の教師の身分に関わる議案に賛成だったとしても、

可決したからといって拍手する気持ちが理解できない。拍手していい議案とそうでない議案があるのではな

いか。人の痛みを感じないからであろう。自分も同じようになるかも知れない。人の痛みに敏感でありたい

と思う。どんなに対立していても、相手の痛みへの想像力を失ってはならないと思う。 


            「貧しい人って誰?」        11月2日

 
 貧しい人々は教会の中心にいます。でも、貧しい人とは誰のことを指すのでしょうか。はじめは私たちと

は違う人々のことが思い浮かぶかもしれません。たとえば、スラムに住んでいる人々、炊き出しをしている

ところに集まる人々、路上で寝ている人々、刑務所や精神病院、養護施設といったところにいる人々。けれ

ども、貧しい人々はもっと身近にいるに違いありません。私たちの家庭や教会、職場にいる可能性がありま

す。そしてもっと身近に、私たち自身が貧しい人々であるということもあります。つまり、愛されていない、

拒絶された、無視された、暴行されたと思う自分も貧しい人なのです。 遠いところであろうと身近であろ

うと、私たちの心の中であろうと、貧しさを目の当たりにしたり、味わったりするなら、その時こそ私たち

は教会となるよう招かれています。そして、兄弟姉妹として手を取り合い、傷ついたところや助けを必要と

している自分の姿を心を開いて語り合い、許し合い、傷を癒し合い、イエスの食卓を囲んでパンを割く、こ

れが教会となるとおうことです。このようにして、貧しい者である私たちは、私たちのために貧しくなられ

たイエスに出会うでしょう。
  

                   (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)