なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(74)

       使徒言行録による説教(74)、使徒言行録20:1-12、
               
使徒言行録によれば、エフェソで暴動寸前に騒動が治まった後、パウロマケドニア州へと出発

しました。<弟子たちを呼び集めて、励まし、別れを告げてから>(20:1)と言われていますので、

パウロは、騒動後のエフェソの信徒たちのことを気にかけていたに違いありません。「エフェソ人

のアルテミスは偉い人」と叫び続ける群衆によって、キリスト者である、マケドニア人ガイオとア

リスタルコという二人の仲間が捕えられて、25,000人も収容できる野外劇場へなだれ込み、正にリ

ンチが行われようとした寸前に、エフェソの書記官の静止によって、かろうじて暴動が食い止めら

れたのです。そのような騒動が起きたことを知りながら、パウロは、エルサレム献金を持って行

くために、エフェソを後にしなければならないと決断したのです。

パウロは<弟子たちを呼び集めて、励まし、別れを告げ>ました。パウロは、この時、エフェソ

の信徒たちにどのようなことを言って励ましたのでしょうか。私はこのように励ましたのではない

かと思います。「みなさん、また、再びエフェソでは、同じような騒動が起きて、あなたがたは困

難に直面するかもしれません。私はここを去らなければなりませんが、いつもあなたがたのことを

覚えて祈っています。どんなことが起きようとも、<主にあってしっかり立ち続けてください>。

「神われらと共にいまし給う」ことを信じて、頑張ってください。私はエルサレム献金をもっ

て諸教会を代表する方々と共に行きますが、私たちの上にも、その途中で何が起こるかわかりませ

ん。けれども、もしわたしたちがイエスに従って、神のみ心を尋ね求め、神のみ心に従って生きて

いるなら、必ず神はわたしたちを支えてくださるに違いありません。神を信頼して共に歩んでいき

ましょう」。

・こんな励ましの言葉をエフェソの信徒たちにパウロは語って、別れを告げてマケドニア州へと出

発していったのではないでしょうか。<そして、この地方を巡り歩き、言葉を尽くして人々を励ま

しながら、ギリシャに来て、そこで3か月を過ごした>(2,3節)というのです。おそらくパウロ

マケドニア州のフィリピ、テサロニケ、ベレアなどで、かつてパウロが宣教活動をして設立した

諸教会を歴訪して、ギリシャのコリントにやってきたのでしょう。そのマケドニア州の諸教会への

歴訪は、勿論その町々に誕生した教会の信徒たちを励ますためだったと思われますが、同時にその

諸教会にエルサレム教会への献金協力を訴えるためでもあったと思われます。

パウロは3か月間コリントに滞在したと言われていますが、このコリント滞在の3か月間に、パウ

ロはローマの信徒への手紙を書いたと考えられています。ご存知のように、ローマの信徒への手紙

は、未知のローマの教会に宛てて、パウロの自らの福音理解を記して、ローマの教会に現在のスペ

インであるイスパニア伝道への協力をお願いして書いた手紙です。このローマの信徒への手紙が後

の教会に与えた影響は計り知れないくらい大きくあります。しかも、ローマの信徒への手紙を書い

パウロのコリント滞在の3か月間は、パウロとコリント教会との確執が厳しかったのではなかった

かと思われます。4節にエルサレム献金をもってパウロと同行するそれぞれの教会の代表者の名

前が記されています。<同行した者は、ピロの子ベレア出身のソパトロ、テサロニケのアリスタ

コとセクンド、テルベのガイオ、テモテ、それにアジア州出身のティキコとトロフィモであった>

と。ベレアとテサロニケはマケドニア州の町です。マケドニア州にはフィリピの町もありました。

6節に「わたしたちは、除酵祭の後フィリピから船出し」とありますので、おそらくエルサレム

パウロの同行者の中にはフィリピの教会の代表者も入っていたと思われます。アジア州の二人は

エフェソの教会の代表者でしょう。テルベはパウロの第一回伝道旅行の時の伝道地であったリカニ

オア地方の町で、ガイオとテモテはリカニオア地方の教会の代表と考えられます。本来ならば、こ

れにギリシャのコリント教会の代表者が加わっていなければならないはずですが、この同行者の名

簿にはコリントの教会の代表者は入っていません。

・3節に、パウロはコリントから近くの港町ケンクレアに行き、そこから<シリア州に向かって船

出しようとしていたとき、彼に対するユダヤ人の陰謀があったので、マケドニア州を通って帰るこ

とにした>と記されています。この使徒言行録の記述には、使徒言行録の著者であるルカの誤魔化

しがあるのではないかと、田川健三さんは言っています。<もしかするとユダヤ人が騒ぎを起こし

たというのも、事実だったかも知れないが(事実でない可能性の方が大きいが)、ルカとしては例

によって、キリスト教内部の内紛はなるべく書かない方針だし、特にパウロと信者たちとの衝突な

ぞ書きたくなかったから、ここは誤魔化して、わざわざマケドニアに舞い戻ったことの口実を、ユ

ダヤ人たちの騒動に押しつけようとしたのであろうか>と言っています。ではなぜマケドニアに舞

い戻ったのかと言えば、パウロはコリントの教会からエルサレム行きの資金援助を得られると考え

ていたのだが、それができなかったので、パウロとの関係が終始良好であったマケドニア州のフィ

リピの教会の信徒からその資金援助を得る必要があったのではないかと言うのです。

エルサレム教会へ献金を持って行くパウロの同行者の中に、コリント教会の代表者がいないとい

うことは、田川さんの解釈もあり得るようにも思われます。もしそうであるとするならば、パウロ

は内憂外患の中で宣教の働きを続けていたことを意味します。外にはエフェソでの騒動やユダヤ

の陰謀があり、内にはコリント教会のように福音理解を異にする同じキリスト者の仲間がいるので

す。パウロはその内憂外患という現実に立ち続けることによって、福音宣教の業をになっていった

のではないでしょうか。

パウロは、そのような己のキリスト者としての生き様を「戦い」と呼んでいます。フィリピの信

徒への手紙1章27節以下で、「ひたすらにキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」(27節)

と勧めを述べた後で、フィリピの信徒に対して、「あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、

心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されて

たじろぐことはないのだと。・・・これは神によることです。つまり、あなたがたは、キリストを

信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。あな

たがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたが

たは戦っているのです」(27~30節)と述べているのです。そして、「わたしは、既にそれを得たと

いうわけではなく、既に完全な者になっているわけでもありません。何とはして捕えようと努めて

いるのです。自分がキリスト・イエスに捕えられているからです」(フィリピ3:12)と言って、自

らの胸の内を言い表しているのです。

・さて、5節6節に、エルサレム教会に献金を持って行くパウロの同行者たちは、<先に出発してト

ロアスでわたしたちを待っていたが、わたしたちは除酵祭の後、フィリピから船出し、5日でトロ

アスに来て、彼らと落ち合い、7日間そこに滞在した>と記されています。そのトロアス滞在の最

後の日は日曜日で、パン裂きの礼拝が行われ、パウロは夜中に至るまで、長々と語り続けたという

のです。パウロとしては、エルサレムに行ったら、そこからローマに行く予定を立てていましたの

で、トロアスの信徒たちと守る礼拝はこれが最後だと思っていたでしょうから、思い残すことなく

長々と語ったのでしょう。パウロの話が長々と続くので、3階の窓に腰かけていたエウティコとい

う青年が、ひどく眠気をもよおし、とうとうぐっすり寝入って、下に落ちるというハプニングが

起きました。しかも、彼を抱き起こしてみたら、もう死んでいたというのですから、大変な事が

起きたわけです。

・しかし、<パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。「騒ぐな、まだ生

きている」>と。エウティコは、実に危ういところで一命をとりとめることができました。ある方

は、<この出来事は、ある意味でユーモアに富んだ、人の笑いを誘う事件であったが、実は重大な

問いをわれわれに突き付けている。彼がもしここで生命を落としていたら、それに対する責任は誰

が取るのであろうか。また外部の者たち(中でもエウティコの家族)からいかに激しい非難と攻撃

が加えられることであろうか>と言っています。確かにそういうリスクをパウロの宣教活動は抱え

ていたと思われます。それは私たちにおいても同じです。

・この問題については、エウティコが死んでしまったと思って、騒いでいた人々に向かって「騒ぐ

な。まだ生きている」と言ったパウロの言葉に注目したいと思います。預言者イザヤが「信じる者

はあわてることはない」(イザヤ28:16)と語っています。また、「お前たちは、立ち帰って、静

かにしているならば救われる。安らかに信頼していることこそ力がある」(30:15)とも語ってい

ます。イザヤは活ける神への信頼であり、希望にこそ力があると語っているのです。「騒ぐな。

まだ生きている」とのパウロの言葉は、直接的には3階の窓から落ちて息絶えた青年を前にした言

葉であったが、それは伝道者としてのパウロの確信をあらわす言葉としても理解できるでしょう。

<第20の章書き出しが「騒ぎ」で始まているように、パウロの伝道旅行にあては、光のあたる

所、常に影のつきそうように騒ぎが起こった。それはある人にとっては絶望的状況ともとれ、パ

ウロも一時は「極度に、耐えられないほど圧迫され、生きる望みをさえ失ってしまった」

(競灰1:8)とまで告白している。しかし、「死人をよみがえらせて下さる神を頼み」とした

パウロは、「まだ生きている」と絶望的状況の中にあっても希望を失わず、「望み得ないのに、

なお望みつつ信じ」(ロマ4:18)伝道に励んだのであった。このような神への信頼と希望が息絶

えたような状況を生命あるっものと変えたのが、聖霊のみちびきによるパウロの伝道旅行のすが

たなのであった>(菅隆志)

パウロは何事もなかったかのように、<そして、また上に行って、パンを裂いて食べ、夜明け

まで長い間話をし続けてから出発した>(11節)という。一方<人々は生き返った青年を連れ帰っ

て、大いに慰められた>と記されているのであります。1982年発行の『説教者のための聖書講

解、釈義から説教へ、使徒行伝』のこの箇所を執筆した菅隆志さんは、「今日の世界、教会ある

いは教団は3階から転落して息絶えた青年の絶望的状況の中に置かれているかもしれない。そし

て、信仰を持ちながらも右往左往しあわてふためくものがないとは言えない。「騒ぐな。まだ生

きている」とのパウロの言葉のように、神への信頼と希望とから出た冷静・沈着なあり方が、何

よりも伝道と牧会の根源に置かれるべきであろう。その時息絶えた青年が生き返ったように、教

会は力を与えられ希望の道を歩むことであろう」と述べています。この言葉は、2014年の今

日の状況においても同じ説得力をもって響いてくるのではないでしょうか。