なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(466)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(466)復刻版を掲載します。2008年9月のものである。

 下記には個人誌「バベル」の主宰者である宗像基牧師と戸田伊助牧師の洗礼を受けていない人も

希望すれば陪餐できる開かれた聖餐式についての応答が記されています。この開かれた聖餐式につ

いての考え方としては、宗像基牧師の考え方は最も徹底しているものと思われますが、私の考え方

も宗像基牧師とほぼ同じです。


        黙想と祈りの夕べ通信(467[-48]2008・9・7発行)復刻版


  3日の祈祷会で紹介させていただきましたM牧師の『バベル』という個人誌から、M牧師とT牧師

の聖餐をめぐるやりとりの一部を、この通信にも引用させていただきます。

 T牧師

【・・・ バベル214号に書いてある「オープン聖餐式」について、小生の問題意識を書いてみましょ

う。ご検討下さい。

1、聖餐は、「神の無条件の恵」に招かれること、この恵みの大地の上にあることを確認してほし

い、信じようとしんじまいと・・・、信じたら恵を受けるのではなく、この恵の上にあることを信じ

ることが信仰、との福音理解、全く同感です。

 私は「洗礼を受けた人は、どなたでもこれを受けて下さい」とは言ってきませんでした。ただ、

「この恵への信仰を持って受けて下さい」と申してきました。

2、「信仰とは何か」、自分の無視覚性、「信仰すらあやしい」この私を、「お前も来い、と言っ

て招いて下さる主にゆだねてあずかる」これがキリスト教信仰の実態です。この絶対の恵に対する、

この私の方の「信なき我を助けたまえ」という福音信仰で与かって下さい、と言うとき、与るか、

遠慮するか、その決定権は各自一人一人の自己決定にあると言えます。他人(教会も牧師も)決定

権を持っていません。各自の自由の中に委ねられています。信者も、与るか与からないかの判断を

する時もあります。

3、従って与るか、与からないかは、本人と神との自由と信仰の中に秘められた「聖霊の導き」に

あると言えます。この「聖霊よ、来たりたまえ」との「祈り」が聖餐式では一番大事ではないか、

と思います。
4、こういう思いから、私は安易に「クローズ」にすることにも、「オープン」にすることにも、

ためらいを感じつつ、ただ一言「信仰と祈りをもってあずかりましょう」と申して行っています。

 以上が小生の考え方です。ご参考になればと思ってしたためました。】

 「バベル」の次号でM牧師は、T牧師へ

 【・・・ 引退の直前に例の牧師退職勧告が出されてしまったので、こんなことなら、もう少し現

役でとどまるべきだったといささか悔やんでいるところです。あなたがオープン聖餐式の問題を

提起してくれたので、その返答をかねて少し書いてみようと思います。

1、「すべての人はこの神の無条件の恵みの大地の上に存在していることを確認してほしい、その

ことを信じようと、信じまいと・・・、信じたら恵を受けるのではなく、その恵の上に既に在ること

を信じることが信仰です」との福音的理解をして下さったこと、これはうれしいことです。

2、聖餐式とは、この神の無条件の,測り知る事の出来ない恵の大地の上に、私もあなたも存在し

ていることの思い起こしであり、確認であり、出来るならばそのことを信じてその恵の命に与かっ

てほしいという願いのこめられた儀式だと思います。それはあなたの言われるように恵への招きで

すが、しかしその招きに応えなければ恵が与えられない、大地の上の存在は許されないというもの

ではなく、信じようと信じまいと、その人がその大地にささえられ、その恵の上に在るのだという

事実が明示され、実証する儀式なのです。聖餐式に与る、与からないはその人の自由です。その自

由によって神の恵みが増減するものではなく、与ることを拒否したことによって、その人に対する

神の恵みが汚されたり、裁きに変質するような安っぽいものではないことは明確です。ですからそ

れだけ拒否されようと、すべての人がその恵の大地の上に在るのです。そのことを信じることが信

仰です。

3、あなたがオープンとか言うことにためらいを感じるということは同感です。しかし、今の教団

の執行部はあなたのしていることも「教規違反」というのです。オープンとか、クローズなどの呼

称の問題ではありません。ですからあなたは好むと好まざるもオープンの側にあることを自覚して、

あの不当な退任勧告に反対して下さい。私は中庸だ、などという自己弁護はやめてほしいのです。

4、あなたは「ただ一言、信仰と祈りをもってあずかしましょう」と言う、とのこと、その「信仰」

はすべての人が無条件に救われているという信仰でしょうか。それとも招きに応えないものには恵

は与えられないという信仰でしょうか。私の言う福音理解に共感してくださるなら、前者だと思う

のですが、くれぐれも信仰のない人はこの神の恵みを受ける資格はないという響きはこめないでく

ださい。信じようと信じまいと、神の恵みは、それこそ無条件にその人を支え、包んでいるのです。

そのことに気づき、少しでもその恵に与かってほしいという祈りをこめて、この恵のしるしを配餐

し、信仰がなくても受け取るように勧めたいものです。お母さんは、我が子が自分の愛を受け取ら

なくても、信じてなくても愛し続けるように、神の愛は母の愛以上に底抜けなのです。誰も、悪魔

といえども、この神の愛を台無しにすることはできません。聖餐式はこの愛の徴です。】  
       

          
         「互いに祝福する」         9月7日


 祝福することは、善いことを言うことです。絶えず互いに祝福しあうことが大切です。両親は子ど

もを祝福し、夫は妻を、友は友を祝福することが必要です。私たちの社会は、呪いでいっぱいです。

だからこそ、行く先々を祝福で満たすことが大切なのです。私たちは神に愛されている子どもであ

るということをすぐに忘れ、世の多くののろいが私たちの心を暗くするのを許してしまいます。で

すから私たちは自分が愛されているということに気づかせてもらい、他の人々も愛されていると気

づくことが大切です。祝福がどのような形で与えられようと、― 言葉によってであろうと、仕種

によってであろうと、厳かにであろうと、形式ばらずにあろうと、私たちの人生は祝福された人生

なりません。


                (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)