なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

通信第4号を今日発送します。

 今日は藤沢で私の裁判支援会通信第4号の発送作業をします。私の裁判支援会に、正会員・賛同者・献金(カンパ)者として関わって下さっている方に送ります。この通信第4号の中に、10月24日の支援会「全国交流集会」で世話人代表として挨拶して下さった関田寛雄先生の文章が掲載されています。そこには、私の裁判の「目的と意義について」、関田先生なりにお考えになっていることが記されています。日本キリスト教団に所属している方にはぜひお読みいただきたいと思いますので、この私のブログにも転載させていただきました。



 「北村慈郎牧師支援集会において」    2012年10月24日    関田寛雄(世話人代表) 


はじめに

 北村慈郎牧師の提起された裁判が続いておりますが、日本キリスト教団の総会が行われるに当た

り、改めてこの裁判の目的と意義について、私なりに確認させて頂きたく、また皆様の御支援を頂

きたく、この場に立ちました。三つの事を申し上げます。

1、この裁判の中で現教団執行部の方々の御意見が明らかにされて参りました。その中心的趣旨は

「北村慈郎牧師の免職処置は、教憲教規に違反する、いわゆるオープン聖餐を続行する事に対して

の、教会としての愛に基づく訓練の意味を持つものであって、世俗の法廷において論ずる余地のな

いものである。故に、北村牧師が悔改めて違法な聖餐をやめるならば、即刻復帰を認める」という

ものでありました。

 この御意見に対して私どもの応答を申し上げるならば、一つはいわゆるオ-プン聖餐なるものが

教憲教規に違反するものか、否かについて、公平な立場からの討論が求められるべきであります。

教憲教規を尊重する事は、同じく教団に属する者として当然承知しておくべき事でありましょう。

しかしながらその解釈と適用についてはバランスのとれた公開の討議がなされるべきであります

が、北村慈郎牧師の免職処置に至る経過は公平なものであったとは言えません。何よりも当事者本

人の陳述の機会が与えられる事なく、オープン聖餐に批判的な立場に立つ方々の、諸委員会による

形式的決定によって結論が出されました。その経過はとても「愛に基づく訓練の意味」などとは程

遠いものであり、何はともあれ、北村牧師を排除しようとの、先き立つ結論のもたらした処置に他

なりません。本人不在のまま行われたこの免職処分は到底、公平なプロセスであったとは言えませ

ん。教団執行部の中に弁明と対話の場を失った北村牧師としては、やむなく一般法廷に裁可を求め

ざるを得ませんでした。

2、教憲教規に基づくと言われる免職処分が、敢えて「愛に基づく訓練の意味」であったと申され

るのであれば、教団の中にしかるべき牧会に入るべく任地が得られず、従って勢いそれは北村牧師

御一家の生活の問題に危機的状況をもたらします。これは直ちに由々しき人権問題に関係して参り

ます。現教団執行部はこの人権上の危機的事態に北村牧師を追い込む事を承知の上で、「免職」と

いう決定をなされ、しかもそれをして「愛に基づく訓練の意味」のためといわれるのでしょうか。

「愛に基づく」と言われるのであれば、なぜ一挙に「免職」という切り捨て処分ではなく、せめて

「戒告」という形で、当事者との対話の期間を置かなかったのでしょうか。これこそ厳密にいえ

ば、教憲教規、特に戒規施行細則にもとる決定ではないでしょうか。現執行部は「愛に基づく訓

練」というよりは、聖餐式執行について問題提起する者を排除する事を前提とした、悪意に満ちた

決定であったという他ありません。日本キリスト教団が合同教会を経て今や公同教会になるべき時

が来たという声を聞きますが、このような理不尽な権力による「異分子」排除を続ける以上、私ど

もの教団信仰告白において告白する「聖なる公同の教会」なるものは決して実現しない事でしょ

う。「教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集い」なる原点に立ちもどるべき

ではないでしょうか。

3、現教団執行部は「北村慈郎牧師が悔改めて違法な聖餐をやめるならば、復帰を認める」という

お考えでありますが、そもそも聖餐式の執行方式をめぐっては永く信仰職制委員会で論議されて来

て、毎回申し送り事項として次の委員会に送られて来ておりました。所がある委員会以降、その申

し送り事項が理由も説明もなく、打ち切られております。このような信仰職制委員会で論議されて

来た聖餐執行に関する多様性は、いつしか統一性に変えられ、未受洗者の陪餐は不可というドグマ

が生じ、その事が、この度の北村牧師免職につながったとすれば、信仰職制員会の申し送り事項取

り扱いについて改めて論議があるべきではありませんか。そのような状況にある時、教憲教規違反

を理由に、北村牧師が免職処分に付された事は全く納得が参りません。ましたや「悔改め」という

言葉は本来、贖い主イエス・キリストの恵みに促されてなされる極めて実存的な信仰の決断のこと

であります。しかし教団の現執行部の言われる「悔改め」は要するに執行部の主張に同意すること

にほかなりません。そのような事は一人の信仰者としての北村牧師がなされる筈はありません。い

わゆる「オープン聖餐」が、教規の規定はともかく、主イエス・キリストの福音の本質にとってと

いう意味を持つことが、正に今、世界の諸教会において問われている事柄であります。教会の課題

としての伝道はくり返し、世にある問題状況との関わりにおいて新しく問い直さなければなりませ

ん。現在そのような時代であればこそ、聖餐執行の問題も含めて恵み深いサクラメントの大切さ故

に、ぜひとも、この課題をめぐる討議、建設的、建徳的な対話の場を教団内に設定して頂きたい

と、心から教団への愛をこめて願うものであります。

             主イエス・キリストよ、我らの教団を憐れみたまえ。ア-メン