なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(141)

 今日は、「父北村雨垂とSの作品(141)」を掲載します。

 昨日は藤沢で私の裁判支援会通信第4号と12月3日(月)午前11東京地方裁判所第103号法廷で開かれます第2回口頭弁論と報告集会の案内の発送作業をしました。事務局の方々のご協力により無事終了しました。メール便で938通、手持ちの分を入れますと、約1000通になりました。              

              父北村雨垂とその作品(141)

 原稿日記「一葉」から(その24)

作品ヒカエ(3)

 朝顔の 朝を華麗にして 沈む 華麗    1979年(昭和54年)8月9日

 生死なきイデア(意志)をペチグリュウ氏の小麦
             (『意志と表象の世界』より、p.257)
 蒼白い苔は 無縁(むえん)の墓石(はかいし)に 墓 緑

 正直に 馬鹿な帽子を ラクスム氏

 陽と月と 涙と影に 泣く 笑ふ      1979年(昭和54年)7月16日 

 
   柿沼考人氏のすすめに依り
   雄山閣の年鑑にと作品五句を送る
   下記の句なり             1979年(昭和54年)6月10日

 尾の消えた蝌蚪 故郷(ふるさと)を蹴り 去るや
 
 踵の出来た サル奴(め)眞(まっ)直(ぐ)ぐ 地獄行き

 皿におどる ンーチェの骨肉と世界の鬼と

 風と語る孤獨を 酒が提げて来る

 なないろのちからを発(あば)く 盲目の時計



 ショーペンハウエルの『意志と表象としての世界』の序文の中で、

 「眞理と云うものは自分を求めもしない相手の首に抱きつく様な娼婦ではない。むしろそれは極めて慎

み深い美女である。すべてを彼女のために犠牲として者ですら、まだ彼女の好意をたしかに得たとは言え

ない」と。

 この「眞理」を作品と入れかえたら、こころしづます作者もきっと在るに違いない。


 ショーペンハウエル『意志と表象としての世界機戞頁鮨綣卮如砲茲

 プラトンはしばしば「人々は唯夢の中で暮らし、哲学者だけが目ざめる努力をする」と語っている  

(p.68-6G)。


 ピタゴラス「ビュティア」八・135は人間は影の夢」(p.68-7q)


 ソポクレス                  (p.68-8G)

 げに生きとし生けるわれらみな

 夢幻にしてはかなき影にほかならずと、われは見る(「アイアス」125)


 シュークスピア                 (p.68-12G)

 われら夢をつくる材料のごときもの、この矩き生を仕上げるものは眠りなり

                         (「あらし(テンペスト)」第四幕第一場)

 カルデロンは一種形而上学的な戯曲「生は夢」で、それを表明しようとした(p.68-15G)。


 ショーペンハウエル(p.69-12G)のことば

 個々の夢は現実の生を貫いている経験の連関とかみあう事がないと云う点で現実の生から区別され、ま

た覚醒はこの区別を表示している。しかし何と云っても、ほかならぬこの経験の連関は現実的な生の型式

として、すでに現実の生に属している。之に対して夢もまた全く同様に、それ自身のうちに立派に連関を

持っているのである。そこで両者の外部に判定の立場をつるならば、両者の本質には何等定まった区別は

なく、人生は長い夢だと云う詩人たちの言葉を認めぬ訳にはゆかない。