なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(183)

 今日は「父北村雨垂とその作品(183)」を掲載します。

 
             父北村雨垂とその作品(183)
  
  原稿日記「風雪」から(その4)

 ニーチェショーペンハウエルの『意志と表象としての世界』第2編495頁にこう云っている。「すべて

の悲劇的なものに高揚への独特な飛躍を与えているのは次のように悟りがひらけることにある。即ち世界

や生は何ら眞の満足を与えないと云うこと、従って吾々は愛着の情を持つには値しないということだ。こ

こに悲劇的精神の本質がある。 ― それ故悲劇的精神は諦観へと導くものである。」と。おおディオニ

ウスはなんと違った風に私に語りかけてきたことだらう。おおこう諦観主義のすべては当時私になんと遠

いものであったことか? しかしこの本には今の私がもっと残念に思っている点、ショーペンハウエル

方式でディオニウス的予感をあいまいにし台無しにしたことよりはるかにしまつの悪い点があるのだ。そ

れは私の心にうかんだあの壮大なギリシャの問題に最近の事柄をまぜてこれを台無しにしたことだ。何の

望みもない所に、すべてがはっきりする位終末を指し示しているところに私が望みをつないだと云うこと

だ。最近のドイツ音楽をもとにして私が「ドイツ的本質」について、まるでそれが今まさに自分自身を発

見し再認しかけているような作り話をでっちあげはじめたことだ -しかしそれは、しばらく前まではま

たヨーロッパにはばをきかせようとする意志をもち、ヨーロッパを指導する力をそなえていたドイツ精神

がまさに最後の意志をかためて決定的にその座を民主主義と「近代的理念」へ移っていった時期にあたっ

ていたのだ。実際私はその後「ドンツ的本質」についてからのぞみなぞいだかないで仮借なく考えること

を学んだ。現代ドイツ音楽についえも同様でそれが徹底的にロマン主義であり、あらゆる芸術形式のなか

でも最も非ギリシャ的なものであることを明らかに知ったのだ ― これは第一級の神経破壊者であり、

飲酒を好み不明晰を徳とあがめているような民族には二重な意味で危険なしろものなのだ。つまり現代音

楽は、麻酔剤として酔わせると同時に頭をぼんやりさせる二重の特質を持っているからだ。気オブを一番

近い現代のものに早まった希望を記し、誤った自分の理論をそこに適用したことで私は当時この私の最初

の本をだいなしにしたのだが、それは無関係でこの本の中でつけておいたディオニウス的大疑問符は音楽

についても厳として残っている。即ちもはやドイツ音楽のようにロマン的起源のものでない音楽 ― デ

ィオニウソス的起源を持つ音楽はどういう性質のものでなければならないだらうか?……


 註:このニーチェの音楽と生死即「生命」との関係をいま少し、忍耐をもって聴くことにするが、これ

が現象的世界像とそれを眞理(法)として容認する根元の重大なポイントとそれを眞理(法)として容認

する根元の重大なポイントであると観られるからである。

                         1983年(昭和58年)年9月3日


 濃盆に 墜す吾が身の 薄みどり          1983年(昭和58年)9月4日


 痰壷に ただよう(墜した) 汝の(吾れの) 薄みどり


 懐ろの 夢を埴輪に 陽を西に           1983年(昭和58年)9月10日


 華麗なる 華を 砂漠に 疾(や)む葦に      1983年(昭和58年)9月18日