なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(214)

 今日の分で「父北村雨垂とその作品」の掲載は終わりたいと思います。後私の手元には一冊の原稿日記

が残されていますが、それはほとんど既に掲載した父の句(現代川柳)を自分でまとめたもので、多分新

しいものはないと思われるからです。また、時間がありその一冊を整理して、新しいものがあればけいさ

いすることにしたいと思いますが、多分それはないものと思っています。したがって、これで終わりにな

ると思います。

 私のこのブログは、父の「お前は宗教家として、路傍で布教活動をしないのか」と昔言われた言葉を思

い起こして始めたものです。確か2006年ではなかったかと思います。最初は、キリスト教に全く触れたこ

とのない人にと思って、このブログを始めましたが、途中で中断してしまいました。再会した時には、私

の戒規免職の問題も起こっておりましたが、この父の遺稿をまとめるために、父の川柳や文章をワープロ

で打ち込んでおこうと思い、どうせなら私のこのブログに掲載していくことにした次第です。随分長くな

りましたが、読んでくださって、ありがとうございました。

 ということで、今日が最後の「父北村雨垂とその作品(214)を掲載します。

  

             父北村雨垂とその作品(214)
  
  原稿日記「風雪」から(その33)

 ショーペンハウエルは意志を基体として世界をその表象としたが、私は意志の生前を意識による意識の

生産に意識を置くべきであると考えている。その意味に於いて私の云う意識の次元である意志はかれショ

ーペンハウエルが考えた意志とはその性格に於いて多くの差異を含むことになる。

                               1985年(昭和60年)10月1日 雨
 

 情熱も 凍る薄(ススキ)る 月の眞下(ました)         1985年(昭和60年)10月9日

 荒野にて 何をか ききょう語るかに             同


 実存とは宇宙の或る一部の中に占める点即ち個が宇宙なる全を含みかつ含まれつつ非連続即連続の境位

に於いて相互依存状態を保持しつつ時間その空間に於いて意識する弁証法的に意識する無意識なる点の働

き即ち能動形として現存する点である。
                    
                               1985年(昭和60年)10月5日
 

 ほろほろと 峯から峯に 寝息とも              1985年(昭和60年)10月25日


 直感とその二次的現象として反省的知性の媒介によるフッセルも云うところのノイエシス的機能による

現象が激情、温情、同情、熱情等々である。そして二次、時には三次と續く感情現象はその殆どがいわば



ほとんど無時間的に持続する瞬間的時間、過去と現在との関係に一線を画する非存在的空間に於ける場に

於いての現象とも観られよう。
                       
                               1985年(昭和60年)10月23日


 富士を背に 問うけいとうは 風に在るらし          1985年(昭和60年)10月29日

 法放と 何を迷うか このはぞく               1985年(昭和60年)11月20日
 
 矻々と 鳴る心臓に 現在(いま)の點(てん)点(てん)      1985年(昭和60年)11月24日

 大雪山の 懐中(ふところ)の氷河(ミイラ)の 懐中(ふところ)の時計(ミイラ)   
                           
                               1985年(昭和60年)11月30日

 大雪山の 氷河(ミイラ)の懐中(ふところ) 現在のミイラ   


 法華経(ホメキョウ)と啼(ナ)く 鶯(ウグイス)に 宇宙(せかい)の籠(カゴ)や   
                    
                               1985年(昭和60年)12月3日


 無は空間を形成する現象と云う意味に於いて存在する。空間は、無を形成する場という現象の意味に於

いて存在する。上記の意味に於いて無と空間とは相関関係を現象する。之の故に「無」も空間即ち「空」

も各々一つの現象形態として因果を根源に持つ。之が全家の根源理念としての私の想定である。

                               1985年(昭和60年)10月26日

 人間と云う個体の一般的情感的性格を一般に気性と云う。自然に於ける天候の動静を人は気象と呼んで

その動行を検討する。この二つの異なる現象を同じ音である「きしょう」によって符號としたことに吾々

は当然深い意味を考察すべき要があると考へられる結論を要する問題であることを記しておく。

                               1985年(昭和60年)11月20日

 
 楽園の 銀河に 無縁の仏(ほとけ)達(たち)          1985年(昭和60年)12月9日

 枯れ尾花 舞ふかな 風に南(みんな)みに           同

 銀河へ 往くか 孤独の仏達                 同 

 魂(おに)と別離の 個体(ミイラ)の無時間(とわ)なる 悲劇よ  同

 菜の花の 安らぎえこそ 蝶の訪うとか            1985年(昭和60年)12月26日

 梅咲くと 聞いたが 避けて通る東風(こち)          1985年(昭和60年)12月21日

 小十年。老残。目出度がられても               同

 半熟(はんじゅく)と 番茶で 老体(おい)の独(ひと)り昼(ひる) 同

 心境も 眞(ま)っ直(すぐ)に立つ 香煙(こうえん)に独(ひと)り 同

 山鳩(やまばと)が 来ている パン屑(くず)の時間(じかん)   同

 したたかな 友情に哭(な)く(慟哭(な))く 彼女の日誌    同

 
太陽(ひ)の螢(ほたる) 月の螢(ほたる)に 時計(いのち)など   1986年(昭和61年)1月7日