今日は、「父北村雨垂とその作品(211)」を掲載します。いよいよ後2回くらいで終わります。
父北村雨垂とその作品(211)
原稿日記「風雪」から(その30)
禅者の観じたと考えられる宇宙に於いてのその現象的世界の創造とするそれは即ち直観―禅者自体―で
あり、単なる概念ではないと云うことであり、それこそ眞の大悟の境に於いての収穫であることを認めな
ければならなぬ。
1985年(昭和60年)7月25日
畜生(ちくしょう)と叱る 私(あなた)に 落ち度は無いのか 1985年(昭和60年)7月27日
禅者はいわゆる英国の哲学者の悟性と独逸のカントの理性とを或はカントの理性観よりはるかに高度の
理性とを厳密に区別していることは般若に到る境を実存的日常性の境に即ちそうした世界に於いて承知し
ている。
1985年(昭和60年)7月26日
ハイデガーの発想として世界的に名をなした「世界―内―存在」は禅者の禅としてその初期から既に識
られた個と全の関係即ち平等と差別として体得した絶対境であり、そこに現象的自然としての宇宙空間自
然現象思想を発明した無思想であり空相である。唯ハイデガーは現象学的哲学として論理的思考であり、
禅者のそれは仏教のそれを基体とした修行より把握した体得であり、そこに前者のあくまで思考に連なる
想念であり、後者のいわゆる「悟境」と云ういわば世界人となると云う意識革命との差が在ることが理解
される。
1985年(昭和60年)8月2日 雨垂
私はこれを「実存者の形而上学説」と呼ぶこととする。
1985年(昭和60年)8月2日 雨垂
經を詠む ひととき丸(まろ)き 人の背や 1985年(昭和60年)8月5日
これやこの 全裸の天女 禅を組み 1985年(昭和60年)8月5日
仏恩と 識る由も無き 呱々(ここ)の声 1985年(昭和60年)8月5日
それぞれに 菩薩と観たか 苔の華 1985年(昭和60年)8月5日
灯し火の 揺らぐ記號を 噛みしめる胸よ 1985年(昭和60年)8月20日
(胸に噛みしめよ)
雑草(くさ)の根と 菩薩を欲るか 松虫の 1985年(昭和60年)8月20日
雑草の根を 庵に木士 鈴虫や
こうろぎと 念仏を居士 夜を白らみ 1985年(昭和60年)8月21日
揺るぐ 灯の記號を 噛みに噛む胸よ
薄尾花は 北に追われて 吹雪くや天に 1985年(昭和60年)11月29日