なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(120)

         船越通信癸隠横亜 。横娃隠廓8月4日        

・先日AさんとAさんのご友人をお訪ねして、しばらくお話しをしました。この方は93歳で、耳が

少し聞え難くなっていますが、比較的お元気で、今はお一人で生活しています。若い時からよく学

び、よく考える方のようですが、お伺いして、こちらからいろいろと問いかけてみましたが、特に

一つの問題に集中してお話しをすることはありませんでした。ただこの方が2、3度つぶやいてい

ましたことが、私の心に深く突き刺さりました。それは「罪の問題」です。この方は大変まじめな

方なのでしょう。若い時にご自分のお仕事の関係で労務管理をされていたようです。その時会社側

の論理に立って行動したことで、資本の論理にくみして労働者を苦しめたのではないかと、今でも

思われているようでした。そのようなかつてのご自分の行動が想い起されるのでしょうか、それを

自分の罪の問題として今でも抱えておられるようでした。私は、「赦された罪人」について少し語

って見ましたが、その私の言葉はこの方の心にはほとんど響かなかったようです。いわゆるキリス

ト教の贖罪信仰も、この方にとっては人間の側の御都合主義のように思われるのかも知れません。

「罪が重く感じられ、日々の生が苦しい」と言われる93歳の方の前に、私には言葉がありませんで

した。ただ心の中で、インマヌエル(神われらと共にいまし給う)と祈るのみでした。

・さて、私の母教会の紅葉坂教会時代にも、企業人で労務管理を担当し、労働者の首切りをした方

がいます。どの程度のことをされたのかは、詳しくは分かりません。この方は70代前半で召されま

したので、90代まで生存が許された場合に、その時自分が過去にした仕事上の問題を、どのように

感じられたかということは分かりません。この方の場合は、ある種自分の職業上の仕事を二元論的

に割り切っていたところもあります。職業上の仕事は企業社会という場で演じられるゲームという

感覚でしょうか。そういうことを、本人が口で言っていたこともあります。そうは言っても、ひと

りの人間の中では完全には割り切れないものがあったちに違いありません。例えば労務管理の立場

に立たされた人が誰かによって、労働者との関わり方も違ってくるでしょう。企業論理を全く疑い

なく体現している人と、企業社会という部分社会の問題に自覚的な人とでは、自ずから労働者に対

する姿勢が違ってくるでしょう。その微細な違いが、企業人としての立場から出る行為にどう影響

するのかは分かりませんが、私の知っている方は、少なくとも私たちとの交流の場では企業人とし

てではなく、全く対等なひとりの人間として私たちと平らに付き合っていました。「場の顔」では

ありませんが、ある種の使い分けがあったのかも知れません。この方はお酒の好きな方でした。深

心理的に想像すれば、企業社会での場の顔と一市民としての日常的な場での顔との矛盾がこの方

をお酒に必要以上にのめり込ませたのかも知れませんが、それは分かりません。

・さて、戦前から企業人として、ある面でトップに近い場を生きて来られたキリスト者の方のこと

も私は知っていますが、その年代の方は上記の方のような悩みは、お持ちにならないのではという

気がします。少なくとも外面的な交流では、そのように思いました。1960年代後半の教会の中に起

こった靖国神社の国家護持反対運動についても、その方は戸惑いを覚えておられたようで、キリス

ト者が政治的な運動、特に反体制的な運動に参加することは、その方の信仰では考えられなかった

のではないかと思われました。信仰は個人の魂に関わる問題で、信仰が企業人として会社の中で生

きる自分の生き方を直接問うという考え方は持たれていなかったようです。中にはキリスト者とし

て、はじめから企業の中では、管理職になることを避けて、むしろ労働者側に身を置いておいて、

組合運動を選んでゆかれた方もいるかも知れません。何れにしろ私たちは生きて行くために物質的

な基盤を何がしか得ていかなければなりませんので、職業人としての道を歩まざるを得ません。そ

の際程度の差はあっても、資本制社会に生きている以上、他者を踏みつけて得た報酬ということで

は、それを罪と言うならば、その罪から全く自由である人は皆無なのではないでしょうか。

・私は、Aさんのご友人との話し合いから、いろいろと考えさせられましたが、改めて資本制社会

に生きる者の負い目に行きあたらざるを得ませんでした。イエスがこの社会に生きておられたら、

どうされただろうかと考えさせられます。資本が神となっている砂上の楼閣のような現代の金融社

会の中で、イエスの神を信じて生きるとは?

・私の子ども3人は、この社会の中でかろうじて食いつないで生きていますが、資本制社会の中で

はサーヴィス業に属する消費社会の一端に繋がっています。収入は生活を支えるぎりぎりに近い低

額ですが、この資本制社会の中での関係性からすると、この社会を内部から積極的に支えている場

ではなく、この社会にかろうじてぶら下がっていると言えるような位置で彼らは収入を得ているよ

うに思います。私は牧師とては経済的には比較的恵まれた教会で収入を得てきました。その教会の

メンバーはこの資本制社会の中では比較的高収入を得ている人たちが中心でした。彼ら彼女らの献

金によって生活してきた私は、この資本制社会にあっては自分の子どもたちよりも、よい重い負い

目を負わされているのではないかと思っています。長男がまだ高校生くらいだったと思いますが、

父の私に対して、「お前は、善良な市民を、偉そうに説教など食っちゃべってだましているんでは

ないか」という趣旨のことを言ったことがあります。この長男の言葉は、今でも私の胸に突き刺さ

っています。そういう側面もないとは言えないからです。パウロのように天幕づくりという仕事を

もって、ある程度生活の資を稼ぎ、言いたいことを言うという道を私はとらなかった(とれなかっ

た)からです。そういう意味では、Aさんのご友人の苦い悔いのような思いは、私にもないとは言

えません。このような現実社会の矛盾による逡巡を抱えながら、なかなか一点の雲もない晴れやか

な気持で生きることが難しい私たちですが、それでもイエスを介した神との対話(祈り)に与りな

がら、一日一生を生き抜いていきたいものだと思わずにはおれません。

・他にも報告したいと思う事柄がいくつかありますが、次回以降にしたいと思います。8月に入り

ました。特にこの月平和を噛みしめたいと思います。