なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(35)

      使徒言行録による説教(35)、使徒言行録9:19b~31
              
・先週の日曜日は、船越教会の礼拝はお休みさせていただいて、岩手のO教会の創立記念礼拝の説教を頼まれまして行ってきました。今日の週報の裏の「船越通信」にそのことを書いておきましたので、興味ある方はお読みください。今回は、O教会だけではなく、私の裁判を支援して下さる方々との交流の時も持たせていただきました。岩手の盛岡にあるU教会の牧師館で、少人数ではありましたが、2回そのような集まりを開いていただきました。私から裁判の状況を説明させていただいたり、聖餐の問題についての質問を受けたりして、率直な話し合いができたと思っています。

・さて、日曜日の夜泊めていただいたU教会の牧師館は、旧宣教師館だった建物で、最近2000万円をかけて修理して、現在も使っているそうです。90何年前の建物ということでした。ある面で歴史的な建物と言ってもよい、素晴らしいものです。私は、その牧師館の2階の一室に泊めていただきながら、この建物が最初にできた時に住んでいた宣教師の方の働きを想像しておりました。当時の盛岡がどんな町だったのか、私はよく分かりませんが、宣教師による福音宣教の働きが、当時の盛岡に住んでいた人々から喜んで受け入れられたとはとても思えません。むしろ沢山の障害、抵抗があったのではないかと想像いたします。そこで、この宣教師館に住んでいた宣教師の方は、どのような思いで、この地に留まり、イエスの福音を宣べ伝えたのだろうかと。おそらくその宣教師は、日本の、そして東北地方の一地方都市盛岡に立って、この地に福音の種をまき、イエスの福音を信じる人が神さまによって起こされることを祈り願って、勇敢にお働きになったに違いありません。その情熱は信仰によるものでしょうが、想像するだけで、すごいなーと思うのです。

・イエスを信じ、神を畏れ敬う信仰によって生きるということは、古い自分中心の自己(おのれ)に死んで、イエスを受け入れて、イエスと共に、イエスが愛され大切にされた隣人と共に、新しい人間として生きるということです。神のみ心が支配する神の国を信じ、神の国の実現を望みつつ、それにふさわしく生きるということです。

・自分が如何に正しい、立派な人間であるかを誇る生き方ではありません。また、病気や自分の不幸に打ちひしがれて、何も信じられないし、自分もだめ人間だと思って、重い荷物を背負って、投げ出したくなるような、孤独で苦しい人生を、あきらめのうちに過ごす生き方でもありません。また、自分が健康で経済的にも恵まれていて、病気や不幸な人とは違うのだと思って、自分の幸せを第一にして、周りに苦しんでいる人がいても、見て見ないふりをして、自分の幸せを一人で謳歌する生き方でもありません。もちろん、自分は生きていたくないが、生まれてきちゃったから、仕方なく惰性で生きるしかないという、最初からあきらめて、流れに乗っているだけの生き方でもありません。

・イエスを信じ、神を畏れ敬う信仰によって生きるということは、自分もこの社会も、この世界も、それ自身の姿だけでは見ないということです。自分も社会もこの世界も、そこに、その真の創造者として、救済者として、また完成者として働きかけて下さっている神の働きが及んでいる世界であることを信じて生きるということです。今申し上げた人のような生き方とは対照的に、今申し上げた生き方をしている人も含めて、全ての人を、ご自分の愛する大切な人として、ご自分の胸に包み込んでくださっている神の温かな視線を受け入れて生きるということです。

ユダヤ教徒で、パリサイ派のゴリゴリの律法学者の一人であったサウロは、律法の義、つまり神から授かった、「かく生きよ」と示されている律法を、自分は忠実に守って生きているということに、自信を持っていました。だから、我こそは正しい生き方をしている義人であると、自分を誇っていました。その彼が、エルサレムの大祭司のお墨付きの逮捕状を携えて、キリスト教徒を捕まえて、エルサレムに連れて来て、牢にぶち込むために、一行のリーダーとして、ダマスコに向かっていたのです。しかし、その途上で、雷に打たれて頭がおかしくなったのか(田川健三)、サウロは、光の中で復活の主イエスに出会って、回心の体験をしたというのです。つまり、それまでの自分の生き方を180度変えて、キリスト教徒の迫害者、弾圧者だったサウロは、回心体験を経て、「この人(イエス)こそ神の子だ」と告白して、キリスト教の伝道者として熱心に、ダマスコの諸会堂を巡り歩いて、イエスがメシア(救い主)であることを語り歩き、また律法学者として旧約聖書に精通していたでしょうから、イエスがメシアであることを旧約聖書から論証してまわったというのです。エルサレムの大祭司らからお墨付きの逮捕状を持って来て、ダマスコの町のキリスト教徒を捕まえに来た者が、反対にイエスこそ神の子、メシアだと言い回っているわけですから、ダマスコの人たちは驚き、混乱してしまったというのです(22節の「うろたえる」と新共同訳で訳されている言葉は「混乱する」と訳される言葉である。田川健三)。

・サウロがやってきて、ダマスコの人たちは予想していたこととは全く反対の事が起こったのですから、当然驚き混乱したと思います。ちょうど突然地震が起きた時のように、今まで足を大地につけて、疑わずに生きて来た、その土台がサウロによってひっくり返されたことになるからです。自分たちが信じていた価値観、安心して生きて来た秩序が、根底からひっくり返るわけですから、驚いたり、混乱したりするのは当たり前です。問題は、そこからどうするかということです。

東日本大震災で福島東電第一原発事故が起きてしまいました。みんな驚き混乱しました。そこで、前々から叫ばれて来た原発の危険性が現実となって、自然エネルギーへの方向転換が求められ、脱原発にシフトを変えることが求められました。多くの人々もそのことを叫び訴えましたし、今も事故直後ほどではありませんが、脱原発の運動は一定の盛り上がりを持続しております。ところが、政府と経済界は、段々と元に戻って、あたかも何事もなかったかのように、原発再稼働を決め、原発の輸出を目論んでいます。脱原発の運動を鎮静化させて、今までどおりにこの社会と人々を導いていきたいのです。福島の人たちが、放射能の危険によって故郷での生活をなげすてなければならない状況に置かれていても、その人たちの命と生活を守るよりも、原発再稼働を先に決めていく政府です。

原発事故は不幸な出来事ですが、起こるべくして起こったとも言える出来事で、原発に依存して生活している我々の生活の在り方を根本から問うものでした。驚きと恐れと混乱の中で、今回の事故は、このままいったらこの地球に人間もさまざまな生物も住めなくなってしまうことになるかも知れないという警告でもありました。これまでの生き方の方向転換を私たちに求める出来事でありました。

・内容的には、これと同じように、サウロの回心によるダマスコでのパウロの宣教は、ダマスコの人々の生き方を根本的に問うものでした。おそらくサウロはユダヤ教の会堂をめぐって、ギリシャ語を話すユダヤ人に向かって、今まで自分が弾圧していたキリスト教徒が信じているイエスこそ、本当にメシアであり、神の子だと、大胆に語り、人々にもその信仰を勧めたのでしょう。そのことに驚き混乱したダマスコのユダヤ人たちは、サウロを殺そうと狙っていたというのです。「そこで、サウロの弟子たちは、夜の間に彼を連れ出して、籠に乗せて町の城壁づたいにつり降ろし」て、サウロを逃がしたというのです。

・ダマスコからエルサレムにやってきたサウロは、ダマスコと同じように、恐れずにイエスの福音を語ったが故に、ギリシャ語を話すユダヤ人から、殺そうと狙われたといいます。そして、エルサレムでもダマスコと同じように、「それを知った兄弟たちは、サウロを連れてカイザリアに下り、そこからタルソスへ出発させた」(30節)というのです。

・この使徒言行録の物語を読んでいますと、イエスをメシアと信じ、神の子と信じる信仰は、古い自分中心の自己(おのれ)によってではなく、新しい人として、神の子どもとして生きていくことです。

・当然に、古い自己の人間やそのような人間によって成り立っているこの社会と衝突していきます。驚きと混乱を引き起こしてしまいます。それは一つの亀裂を呼び起こすことでもあります。その狭間に立ち続ける力が与えられますように。

・神も、イエスさまも、私たち人間にとっては、異質な存在です。その異質な存在である神を信じ、イエスを信じて、私たちもこの世の中で、神の国を夢見る異質な者として歩んでいけたらと願うものです。