なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(36)「兄弟たちもか」ヨハネ7:1-13

10月22(日)聖霊降臨節第22主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」

(ローマ5:5)

③ 讃美歌  6(つくりぬしを賛美します)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-006.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編78編1-8節(A:司会者、B:会衆)(讃美歌交読文84頁)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書1-13節(新約177頁)

           (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌     361(この世はみな)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-336.htm

⑨ 説  教     「兄弟たちもか」        北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

ヨハネによる福音書は7章に入って、<そしてその後イエスガリラヤの中を歩んでいた。ユダヤ人が彼を殺そうとしていたので、ユダヤの中を歩もうとはしなかったのである。ユダヤ人の祭である仮庵の祭が近かった>(1―2節、田川訳)と、まず新しい状況設定が記されています。<そして彼(イエス)に対し弟たち(新共同訳では「兄弟たち」)が言ったと言われています。

 

田川さんは、新共同訳をはじめほとんどの訳で「兄弟たち」と訳されているところは、イエスは長子で兄はいないので、「弟たち」と訳すべきだと言っています。この説教ではそれに従いますので、ご了解ください。

 

ヨハネ福音書で、今までイエスの対話相手として出てきたのは、群衆であり、ユダヤ人たちであり、そして弟子たちでした。今日のところでイエスの肉親である「弟たち」がはじめて登場します。弟たちはイエスに向かて、<ここ(ガリラヤ)から移って、ユダヤにお出でなさいな。あなたのお弟子さんたちもあなたがしている行為を見れるでしょうに。誰も隠れたところで何かをしたりしませんよ。自分が公に知られるようにするものです。こういうことをなさるのなら、自分自身を世に顕わすようになさったらいかが」。>(3-4節、田川訳)と、イエスがしている業を弟子たちにも見られるように、ユダヤに行くように勧めています。イエスがしている業は、ひそかにではなく、公然と行うものだというのです。

 

ここでのイエスとその弟たちとの議論は、イエスがいつエルサレムに上るべきかということに関係しています。弟たちからすれば、この仮庵の祭りの時こそその時であるというのです。

 

ヨハネによる福音書の記者はユダヤ人の祝祭に深い関心をはらっています。それに基づいてイエスの活動の時系列を編集していますが、それによれば、イエスエルサレムを離れたのは、「ユダヤ人の祭」(5:1)での安息日論争以後でありました。この祭りがユダヤ人のどの祝祭を指すのかは、決めかねますが、しかしその「ユダヤ人の祭」から「仮庵の祭り」までは、少なく見積もっても数か月ありますから、イエスガリラヤ滞在はおよそ数か月に及ぶと思われます。そしてやって来たのが仮庵の祭りでありました。これはイエスの沈黙を破らせるまたとない機会であるように、イエスの弟たちには写ったのでしょう。

 

仮庵の祭りとは、ユダヤ人の三大祝祭のひとつで、過越の祭り、五旬節と並ぶものであります。この祭りの規定は旧約聖書レビ記23章33-43節、申命記16章13-15節等)によって知られます。これは秋祭りであり、ぶどう、果物、オリーブの収穫感謝祭として祝われ、だいたい9月末から10月初めにかけて一週間続きます。また元来はこのような農耕祭でありましたが、それに歴史的意義が加わり、出エジプトの際の、荒野の天幕生活を想起させるものとなりました。人々は詩篇の「都もうでの歌」を口ずさみ、エルサレムへ隊列をなして巡礼しました。その地では、家々の屋上や公共の広場に葉のついた枝で小屋を作り、その中に七日間寝起きすることになっていました。それだけでなく、神殿では犠牲が献げられ、荘重な水汲み、水注ぎの儀式と婦人の庭における夜ごとの祭典でにぎわったのです。ヨセフスによれば、これはユダヤ人にとって最大と言わないが、ともかく最も大衆的な祭りであったことは確かです。

 

エスの弟たちも、そのことを十分知っていたに違いありません。彼らはこの祭りの大衆の熱気と興奮が、イエスに好都合に働くだろうということも計算に入れていたと思われます。このようにして、弟たちはイエスが今こそエルサレムへ向かうべきであることを強く促したのだと思われます。エルサレムというユダヤの中心で、多くの群衆が心の高まりをもって集まっている仮庵の祭り、このような舞台こそ弟子を新しく募るのに好都合であり、イエスのわざ(奇蹟)は多くの人々の注目を浴び、彼は勢いを盛り返し、むしろ歓呼とともにメシア(救世主)として迎えられるであろうと、弟たちは思ったのでしょう。これらが、イエスがこの時こそエルサレムに赴くべきだという弟たちの勧めの中にあった意図であると思われます。それはイエスをこの世に栄誉あるものとして登場させようとする、実に綿密なよく考えられたスケジュールの提案でありました。そのような時の設定は、弟たちが考えたものです。

 

しかしイエスは、この勧めを断固拒まれました。その理由は「私の時はまだ来ていない」(6節)、また「私の時はまだ満ちていないからだ」(8節)というのです。ここで「私の時」の「時」と訳されている原語のギリシャ語は「カイロス」です。ギリシャ語には「時」という言葉は三つあります。ホーラ、クロノス、カイロスです。ホーラは時刻、期間、季節という純粋な時を意味し、クロノスは時期、時代という人間の営みとしての時を、カイロスは瞬間、チャンス、好機という時を意味します。聖書でカイロスと言われる場合は、神が介入する時を意味します。私たち人間の営みとしての時間は、私たちがスケジュールを立てているように、私たちが設定している時間ですが、イエスが言う「私の時」とは、そういう人間が設定する時間ではありません。社会の営みとしての歴史は、人間の営みの集積として水平の時間ですが、その水平の時間に垂直の神の時間が突入しているのです。イエスはその神の時間を生きているのです。それをイエスは「私の時」と言っているのです。

 

ですから、イエスの「私の時」と弟たちがイエスのために考えた時とは対立せざるを得ません。この対立は、イエスの鋭い時理解から生じたもので、それは人間があまりに深くなじみ、巻き込まれてしまって無自覚となっている時というものに、光を投げかけるのであります。時というものの深層があらわとなり、時というヴェールのもとに隠されていたものが明らかにされるのです。橋爪忠夫さんは、「そのことはまた、現代において、われわれが知らず知らずのうちに身につけている時に対する処し方についても、深い反省を迫るものであるように思われる」と言っています。(『説教者のための聖書講解、ヨハネ福音書』該当部分)。

 

弟たちの言う意味でのメシアを仕立て、その栄えを見るのであれば、イエスの見解に従えば、そのような時(「あなたがたの時」)はいつでも備わっているのです。しかしイエスが見つめられるご自分の時は、すべての時間、歴史の中で唯一、一回限りの時であります。時の設定の背後に、世俗の力が大きく働いていることを見るならば、この対立は根本的には弟たち、また当時の弟子たち、あるいは群衆にも共通する期待のメシアと、イエスの示そうとしたメシア像の対立であると見て差し支えありません。

 

エスは何よりもまずご自分を、徹底的に神のみ心に従ったメシアとして表そうとしているのです。決して、いつあらわれるべきか、その適切なまた効果的な舞台のみを考えているのではありません。そしてまた、世に受け入れられるかということが決定的なことでもありません。否、彼が思い描くメシアとは、神のみ心に従って世をご自分に迎え入れることが決定的なのです。そういうことから言えば、弟たちの抱いたメシアのイメージは、ただわざ(奇蹟)と衆目を集めるような仕事以上のものを期待しないものであり、浅薄なものであったことは否めません。彼らはイエスが隠れて行なっているわざが、ただ祭典の中のエルサレムという公然たる場所で行われれば、それでメシアとしての証しが立つと思っていたのです。それ以上の期待はありません。しかし、イエスが抱く、またご自分であらわそうとされておられるメシアとはそういうものではありませんでした。

 

弟たちは栄光を受けるだけのメシア、それもせいぜいダビデの再来くらいの権力あるメシアしか考えていませんでした。しかし、イエスは遜(へいくだ)りと受難と死を通してのみ栄光を受けるメシア、というものを考えておられたのです。ユダヤ人の年ごとに繰り返される祝祭は、かれらの期待するメシア、世に受けるメシアの登場のためであるならば、たびたびその時を提供するでしょう。しかし、神のみ心に従ってあらわれるメシア、それも未曽有の受難のメシアの時は、ただ一回なのです。このメシアは世に受けるかどうかということでなく、神のみ心に従って世をご自分に、そして神に受け入れることこそ決定的な任務でありました。したがって、その任務も、その登場の時も、神のみ心によって選ばれ、設定されなければならないのです。イエスの抱いた受難と死とを経験しなければならないメシア像とは、弟たち、また世に不可解であったというだけでなく、それはまたイエスの弟子たちにとっても理解しがたいことでありました。

 

このように、イエスは彼のエルサレム上京が、何を意味しているかをはっきりつかんでいたのです。エルサレムを思い浮かべ、そこに登場することは受難と死を意味するのであるということを知っておられたのです。それが神のみ心によって定められた避けられないことであるならば、その終りまでも神のみ心によってことが運ばれなければならないとの思いを、イエスは持っていたのです。それが、イエスが何か月かガリラヤに滞在された理由です。

 

このようなご自分の受難と死を見つめられた彼にとって、世俗に受けるメシアとして彼を祭り上げようとする彼の弟たちの期待よりも、次のような世の動きの方がよい大きく写ったに違いありません。それは「ある祭」の安息日論争以後、「ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと計るようになった」(5:18)ということであり、またユダに悪魔が入り、イエスを裏切ろうとした(6:71)ことです。そして事実、仮庵の祭りのガリラヤからの巡礼団に対して、殺意をもったユダヤ人当局者の目が光っていたのです。7:11に<それでユダヤ人たちが彼を祭で捜して、言った、「あいつはどこにいる」>(田川訳)と言われているのです。イエスは一連の彼をめぐる事態の推移を、彼の弟たちよりもはるかに冷静に洞察していました。そのような事態の推移も深くは彼をただひとりの真のメシアとしてお立てになる神のみ心によるのであるから、その決定的なメシアの時も神意によって設定され、定められた時以外ではありえなかったのです。

 

この時の設定の対立が根本的にはどういうことであったかを、シュラッターはこのように言っています。「イエスの隠れた姿について弟たちの不満は、その根本おいてイエスの十字架への道に突きあたった。イエスを支配し、十字架の道からそらせようとした、弟たちの忠告は、彼らもまた内的にイエスから遠くはなれたままであり、イエスに反して彼らの意図や意志を主張し、イエスの下にではなく、イエスの上に自分を置いていたことを暴露したのである」と。このように見て行けば、時の設定という行為は、そこにどんな理由があれ、人間をイエスの上に、また神のみ心の上に置く可能性が秘められているのであります。

 

現代人は時の設定という積極的な行為を通して、不可避的に時の問題と直面しています。しかも切実な事柄に関する時の設定であればあるほど、イエスの弟たちの勧めがメシア待望であったように、何らかの意味で人間の救いと関連して来るのであります。時を果敢に設定し、しかも自らそれに強く縛られることとなった現代人は、まさに時の問題において救済に目を向けなければならなくなっているのではないだろうか。イエスがご自分の時を見つめられ、「私の時」と発言された中に、この時と救いをめぐる解答が秘められているのではないだろうか。時の設定も、人間の救いも決定的には神のみ心によるのである。このみ心は人間には隠されている。しかし、イエスはこのことは神に主権があり、神の行為として見られるべきであり、神から受けるべきことを示された。時のヴェールのもとに隠されている真のものは神のみ心である。時は神が支配し給う。そして時を神の救い、啓示の道具として、イエスの受難と死に用い給うのは神であった。したがって、時のヴェールを取り給うのも神であることを知らなければならない(橋爪忠夫『説教者のための聖書講解、ヨハネ』)。

 

私たちが時をそのように神の時として受け止めて、それにふさわしく時を生きることができますように!

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も礼拝を行うことができ、この礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 神さま、ウクライナでの戦争も、パレスチナイスラエルとの戦争も、直ちに休戦し、平和な関係を築く対話を造り出してください。
  • 神さま、どうか戦争をしないで、人々が平和に生きる道を与えてください。
  • 貧困や差別によって苦しむ人々もたくさんいます。そのような人々の苦しみや悲しみが生まれない世界になりますように。
  • それにも拘わらず、今様々な苦しみの中にある方々を助けてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩      54(聖霊みちびく神のことばは)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-054.htm

⑪ 献  金 

⑫ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。