なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(588)

船越通信、№588、2023年10月22日(日)北村慈郎

  • 15日(日)は礼拝後の報告で、東日本大震災における東電福島第一原発事故によって神奈川に避難生活をしている方々の東電と国の責任を訴える裁判の結審が近づいているので、裁判官に正当な判決を出すように訴えるハガキを書いて、裁判支援をしている所へ送って欲しいというアッピールが礼拝出席者のHさんの友人の方からありました。私も既に別の所で頼まれて、ハガキを書いて裁判支援をする所に送っていましたので、皆さんに協力を要請したところ、その方が持ってこられた5通ほどのハガキを数名の方が持ち帰って行かれました。この日は礼拝後、「ウクライナに平和を!」のスタンディングを予定していましたが、中止して、来週の日曜日に延期しました。この日は朝から雨が降っていて、礼拝が終わるころには雨は止んではましたが、また雨が降るといけませんので、皆と相談して来週に行なうことにしました。その後Nさんが会堂で29日(日)の平和と人権を考えるDVD鑑賞会で放映するDVDの確認をして帰られた後、しばらくして私もこの日は歩いて京急田浦駅に行き、鶴巻に帰りました。
  • 16日(月)には、例年11月第一日曜日に行なっている永眠者記念礼拝の案内を出し、頼まれていた寿地区センターニュースの原稿(クリスマスメッセージ)を書き上げて、編集委員にメールで送りました。私はこのクリスマスメッセージの中で、私の原点になっているクリスマスの経験を短く記しました。それはもう50年前の1973年のことですが、神学校を出て牧師になりたての頃でした。私が神学校時代から関わっていた足立区本木町にあった本木隣保館という、当時その地域に住んでいた廃品回収によって生業を得ていた、通称「バタヤさん」の相談事業をしていたセツルメントがありました。そこで神学校の先輩が始めた「バタヤさん」の集会が週一回あって、先輩が神学校を卒業した後は、私と友人の二人でその集会を引継ぎました。そして私と友人が神学校を出た後は、私がその本木隣保館に一番近い足立梅田教会の牧師になり、本木隣保館の「バタヤさん」の集会の責任も持っていました。1973年のクリスマスには私たちの家族は5人になっていて、私と連れ合いと共に4歳の娘、3歳の上の息子、生れて半年の下の息子の5人です。この時に、15人ほどの「バタヤさん」と本木隣保館の職員2人と私たち家族で、クリスマスの集会を持ち、イエスの誕生を祝いました。その時に撮った写真があるのですが、寿地区センターニュースのクリスマスメッセージではこのように書きました。〔片付けの下手な私なので、その時に撮った写真があるのだが、何処にしまってあるかは分からない。その写真に写っている十数名の「バタヤさん」一人一人の顔は、それぞれ個性的で、集合写真なのだが、それぞれ単独に撮った写真を貼り合わせたような感じである。その中に本木隣保館職員2名と私たち家族5名も写っている。娘は4歳、上の息子は3歳、下の息子は母親の連れ合いに抱かれていて、まだ生まれて半年の乳児であった。私も32歳。人生経験は未熟で頭でっかちな牧師になりたての頃であった。3人の子どもたちはあどけない顔をして写っている。私たち夫婦も強烈な存在感を持った「バタヤさん」の中で一歩後ろにいるような感じで写っている。私はこの時の「バタヤさん」たちと祝ったクリスマスを今でも忘れることが出来ない〕と。寿地区センターニュースのクリスマスメッセージを頼まれて、改めてわたし自身のクリスマスの原点を想い起こすことができました。また、この日に、本年8月半ば以来頻繁に上海から私に電話で相談してくる、紅葉坂教会時代の最後に関わった、当時紅葉坂教会の近くに住んでいた韓国人の女性に頼まれて、四通目になりますが、上海にいる方に手紙を書いてEMS国際スピード郵便で出しました。
  • 18日(水)は、前から約束していた帰天された関田寛雄先生の大網のお宅に伺う日でした。朝7時前に鶴巻を出て、新宿、千葉経由で大網まで行きました。途中千葉駅構内の食堂で朝食をとりましたが、大網に着いたのが10時半ごろで、待ち合わせの約束は11時でしたので、しばらく駅前をぶらついて、関田先生の葬儀の時に伺ったことを思い出していました。11時に先生の娘さんお二人と先生の葬儀で聖書朗読と祈りをお願いしましたK・A牧師の自動車に載せていただき、途中先生がよくいかれていたというガストで昼食をして、4人で先生のお宅に行きました。先生の娘さんたちで、K・A先生も手伝ってくださり、帰天された後の先生のお宅を整理されて、私が伺って先生の蔵書を見ることができるようにしてくださったのです。先生のご家族の方々には、先生の葬儀を終えた後に、先生の蔵書は農村伝道神学校に寄贈することで、ご了解を得ていましたので、今回私が先生の蔵書の大体の内容と量を調べるために先生のお宅に伺ったという次第です。本は書棚に並べてあるものと、すでに段ボール箱に入っているものが、1階と2階の部屋にあり、それをアイパットで、本が積まれたところもありましたので、全てが分かるというわけではありませんが、大体どんな本があるか分かように写真に撮りました。その後しばらくお茶を飲みながらお話をして、K・A先生が自動車で大網の駅まで送ってくださいました。先生の娘さんお二人とは千葉でお別れして、私は鶴巻に午後7時半近くに帰ってきました。それにしても、今回関田先生の大網のお宅に伺って、そのお宅から徒歩とバスで大網駅まで30分ぐらいかかるようですので、礼拝や集会のために神奈川教区の教会・伝道所を往復するだけでも大変であったことがよくわかりました。それを帰天されるまで神奈川教区の巡回牧師を貫いたわけですから、改めて先生のすごさを思わされました。
  • 19日(木)は国会前の辺野古新基地反対の座り込みに行きました。この日の参議院議員会館前の私たちが座り込みをしている道路は、行きかう背広姿の陳情団と思えるグループが何組も通っていました。20日臨時国会が召集されるからでしょうか。この日は月一回の宗教者平和ネットの集会もあり、その集会に参加する神学校時代の私の友人も少し早めに来て、私たちと共に座り込んでくれました。午後3時過ぎには千葉から足の不自由な方が久しぶりに参加し、最後は7名になりました。