なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

牧師室から(29)

 以下は、1998年の教会の機関誌に書いたものです。7月のものは小島誠志さんが教団議長の時の教区総会挨拶についてです。小島さんには、この時も直接批判をしたように思います。小島さんは神学生時代に私と同じ足立区本木町にありました本木隣保館というセツルメントの「バタヤさん」の集会に関わった人です。小島さんとは、既成の教会からは排除されている方々にイエスの福音が届くのかという問題意識を共有していたと、私は思っていましたが、教団総会議長であった小島さんと再会した時には、小島さんからはその問題意識を感じられませんでした。残念です。

 同じことは今教団の信仰問答書や宣教基礎理論の作成に関わっています上田光正さんにも言えます。彼も本木隣保館の「バタヤさん」の集会に神学生時代に関わっていました。前回の教団総会で上田さんにお会いしたとき、小島さんに感じていることと同じことを上田さんにも感じていることを話しました。

 時間の経過とその後の体験の相違が、若い時一緒だった親しい友人との間にだんだんと隔ての壁ができてしまうこともあるのでしょう。今も同じ方向性で生きている友人もいますが、不思議なものです。
 
                
                牧師室から(29)

 6月20日に神奈川教区総会がお隣の指路教会で開かれました。その時に恒例の教団議長挨拶がありました。現教団議長の小島誠志氏が用意された文章を読み上げて、挨拶をされました。その挨拶文の一節に、教団教会に触れてこのように書かれていました。「1950年代前半には毎年平均11,960人あった受洗者がここ数年は2,000人台となっています。同じく教会学校の礼拝出席者も1950年代には平均111,454人ありましたが、ここ数年23,000人台となっています」と。そして教会財政の停滞あるいは下降、教会員の高齢化に触れ、「このような現状を打開するために、立場は違っても、諸教会はそれぞれ伝道を展開しなければならないと思います」とありました。

 議長は伝道の内容を問いませんでしたが、前記の人数の激減の記述は伝道を教勢の拡張として一方的にとらえていることを示しています。私たちの教会でも、教会員の高齢化に対して対策を考えなければならないという課題が出ています。宣教委員会はこの課題を役員会に提案しました。役員会ではとりあえず総務委員会と教職で話をはじめてもらうことにしました。私は、この伝道の問題が起こる度に、神学校を出る頃当時の教団議長鈴木正久氏が「教勢には広さと深さがある」と言われたことを想い出します。深さを欠いた広さの追及は、教会の宣教が教会経営になりかねません。私たちの教会は、深さを失わないで広さを求める狭き 道を進んで行きたいと願います。
                            1998年7月


 今年は梅雨に入ったすぐの頃に真夏日を思わせる猛暑の日が数日続きました。暑い日々がやって来るのかと思っていましたら、なかなか梅雨明けとなりません。台風も来ません。この夏は冷夏でしょうか。

 先日キリスト教書店のAさんから、書店に来ているお年寄りの方が教会に行きたいとおっしゃっているので、今案内してもよいでしょうかという電話がありました。そしてやって来られたのは、80代後半という男性のNさんでした。Nさんは10年前くらいにお連れ合いを亡くし、それ以来一人暮らしをしています。自分史を書いたり、かつて技術兵士として直接に戦闘には加わりませんでしたが、中国を転々とした体験から、何回か中国を旅行し、中国人の青年と文通をするようになったそうです。それを契機に、日本に留学希望の中国人青年の身元引受人となって、もう十数人をお世話しておられるとのことです。Nさんは、数年間病気の妻を介護してその妻を亡くした時、妻の遺体が火葬され、かまから出てきた骨と灰を見て、最初に「もったいない」と思ったと言うのです。私には意外な感性に思われましたが、Nさんは、その後自分のからだの献体を希望し、数か月かかって戸惑う3人の子どもたちの了解を得ることができたと言います。

 Nさんと話していると、個人史の中に何と多くの貴重な物語が秘められていることかと、つくづくと思わされ、ひとりの存在の重さに圧倒させられました。
                           1998年8月


 いよいよ9月から私たちの教会の礼拝で使う讃美歌が「讃美歌21」に代わることになりました。

 私はあまり音楽的なことはわかりませんが、歌詞に関しては、今までの讃美歌には礼拝で使えるものが少ないという感じを持っていました。情緒的な歌が多く、教会が共同体として歌える歌、福音の内容がしっかり表現されている歌が少なく、礼拝の讃美歌を選ぶときなど困ることがよくありました。それに対して讃美歌21は、礼拝を意識して作られていますので、今までのものより礼拝で歌える歌詞の讃美歌が多いように思われます。

 讃美歌21が作られた背景の一つには、礼拝の刷新があると言われます。現在の礼拝がその礼拝式の在り方においても福音の出来事に相応しい構造を持っているか、「音楽つき講演会」の域を脱し切れていないのではないか、という批判です。礼拝の刷新は世界的な動きと言われ、エキュメニズムの運動とも連動しています。礼拝への会衆の参与、聖餐式の軽視(説教偏重)など、その批判の妥当性は認めざるを得ません。

 私たちの教会としては、聖餐式やこどもと大人の合同礼拝のことも踏まえて、今後礼拝について考えていきたいと思いますが、j10月から日曜学校教師、役員有志、教職の会を持ち、問題の所在を共有し、役員会への提案をしていけたらと願っています。この会はだれでも参加できるように開放していますので、関心のある方は積極的に参加下さいますように。第一回は10月16日午前10時から。
                          1998年9月