なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(147)復刻版

 今日は、「黙想と祈りの夕べ通信(147)復刻版を掲載します。

       黙想と祈りの夕べ通信(147[-42]2002・7・21発行)復刻版

 先日召された一人の兄弟のことを思い巡らしながら、その兄弟がどこかに自分の死を受容していたところがあるのではないかと、私は思っています。このことは、その兄弟だけではなく、今までにも他の諸兄姉の死においても同じことを感じてきました。急な死ではなく、ある程度死までの時間がある場合、例えば病気による体力、気力の衰えが徐々に進行していくような場合には、本人もいつしか自分の死を受容していくのではないでしょうか。もちろん、すべての人がそうであるとは言えませんが、多くの人は死の受容に至るように思われます。

 むしろ、死の受容が困難なのは、家族・親族の方々のように思われます。家族や親族にとって、愛する者の死を受容できるようになるのには、相当の時間が必要に思われます。どうしても愛する者の死という現実が先に来て、それを致し方なく認めざるを得ないということなのかも知れません。そういう死という出来事の厳しさを感じます。

 また、他方昨日保土ヶ谷の家庭集会で、O兄が司会をし、開会の祈りの中でN兄の帰天に触れて、このように祈られました。N兄は、天国で先(本年2月)に召されたお連れ合いのRさんと、そして10年ほど前に召されたご両親と親しく語り合っていることを信じますと。一人の死に伴うこのような天国の物語に、私たちはホットさせられます。死の受容とともに天国の物語を、私は大切にしたいと思っています。

 また、一人の姉妹から発言がありました。自分はしばらく前から12,3人が集まる会に、毎月一回だけ出ている。その中の一人の方が、教会の近くの方で、自分がその方の前を通ったときに声をかけてきてくれ、親しく話しかけられてうれしかった。その方は近所の子供たちを集めて、聖書の勉強をする会を持っている。種まきをしているんですよと、その方はおっしゃった。私はその方のお話を聞くこともうれしかったが、その方のなさっていることが、当教会とどう繋がっていくのか楽しみである。また、それがどう発展していくのか、楽しみにしてお祈りしたいと思う。

 この日は礼拝の中で伝道師の就任式が行われ、礼拝後にお祝いの会がありました。すでに教会では4月に歓迎会を開いていますので、その時の盛り上がりに比べますと、お祝いの会は静かに進行しました。日本基督教団では教区総会で准允を受けて、任地の教会で就任式をしてはじめて教職(補教師)としてのスタートを切ります。今後の歩みの上に主の導きを祈ります。



         わざは信仰の印章(『ルターによる日々のみことば』より)


 わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのであ  る。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。                                    エプソ2:10

 わたしたちは他に与えることができるようになる前に、受けなければなりません。あわれみのわざができるようになる前に、まず神からあわれみを受けなければなりません。わたしたちが、すみのおや石をすえるのでなく、また、羊が羊飼いを捜すのでもありません。反対に、羊飼いが羊を捜すのです。それゆえわざに関しては、それは神の前になんのいさおしにもならないことを覚えてください。神から与えられたすべてのものは、いさおしなしにうけとったものです。

 次に、わたしたちはわざを印章とみなければなりません。それは手紙の署名のようなものであって、わたしの信仰が正しいことを確信できるからです。わたしが心のうちに愛から働きがあふれ出てくることを感じるならば、わたしの信仰は正しいことを確信できるからです。またわたしが兄弟をゆるすならば、そのようなゆるしは、わたしの信仰が正しいことを確信させ、神がわたしをゆるしてくださって、日ごとに罪のゆるしを与え続けてくださっているという信仰の保証となり、確証となります。反対にわたしがゆるさないならば、信仰がかけていると結論づけなければなりません。
                                三位一体後第4主日の説教