今日は「父北村雨垂とSの作品(138)」を掲載します。
父北村雨垂とその作品(138)
原稿日記「一葉」から(その21)
俳諧歌仙と西脇順三郎の詩について(その4)
川研 1968年(昭和43年)11月に発表
前にも少しふれたが、これに四季や、月花、或は恋、神袛釋教等と変幻自在に而も渾然一体に織りこまれた一巻の変化の妙は、全く素晴らしい絵巻ものとなっている訳である。
殊に芭蕉の指導による猿蓑、炭俵等の作品の如きは永久に日本詩壇の誇りとなるものである。私は川柳作家のはしくれではあるが、「香魚の巻」は殊に私の身近なの川柳の人達で、作品が私の知ってゐる限りに於ての最も新しい作品であり、そのタイトルを揮った右近氏は力量の勝れたこと、定評のあるうえに作品が大方現代語である点等讀者に最も理解されやすいと考へて右近氏に乞うて再掲させていただいた訳である。
さてここで話を現代日本の超一流の詩人と云われる西脇順三郎氏の作品とその理論を検討してみよう。
まず思潮社版の氏の詩集の最初に出ている「どこかで」をとってみよう。
どこかでキツツキの音がする
灰色の淋しい光が斜めにさす
コンクリートのせまい街を行く
アンンジェリコの天使のような粋な
野薔薇のように青ざめた若い女が
すれちがった・・・・ゆくりなく
ベーラムがかすかにただよう
この果しないうら悲しさ
「おんどりのけいこに行って来たのよ」
もちろん讀者の中には、この作品は既に御覧になった方も多いことと思うが、大へん矩くて、私にとっても手頃の一編であるので拝借する訳である。
また前に戻るが、歌仙の「香魚の巻」を御覧になって、すでに御承知の事と思うが、歌仙の面白さは、次々に表現された句に於ける空間が表現する、無の呼吸(いき)づかいの面白さにある。発句の香魚と脇句欄干に匂う清流に添ってあてられた客間の情景、それに次いで第三の梢をとりまく風と、匂ひ、よく響き、またよく移る。一轉、寝つかれぬ乳吞児と変ずる手際、このあたりの面白さが歌仙のだいご味であらう。俳聖芭蕉が生んだ歌仙に於ける構造の面白さである。
西脇氏の作品は勿論「詩」であって歌仙ではないが、一見して感ぜられることは、その構造が素晴らしいテンポで変化していることとその行間にある空間が、前記歌仙に於ける空間と同じように、重大な意味を持っているということである。つまりその空間の関係が、或は匂ひ、また響き、またよく移るという具合に私には感ぜられるのである。
ただひとつ歌仙と違う所は、歌仙は二人以上の作家の合作によって一巻とすることを本領とするが、一方、西脇氏の作品は云うまでもなく西脇氏一人の作品であると云う違いである。歌仙に於ては二人以上の作家によるものであり、そこに個性の」相違等による特殊の変化を求めた様であり、事実、意表に出る様な変化をみせる面白さもある。 ― 時に文字にあらずと云われたこともあったが ― 西脇詩はどこまでも西脇氏個人の作品であると云う違いである(この個人の作品と合作との作品が持つ個性については別に機会を得て考へてみる必要がある様に思う)。
西脇氏の「どこかで」に於けるキツツキの音と斜に走る灰色の光との響き合い、灰色の光から裏街のせまい道との匂ひ、突如としてアンジェリコが描いた天使の様なと俤を行間に描く妙技は全く讀む者のこころを夢の世界に遊ばせるにこと欫かない。いま一度「香魚巻」を引合いに出して恐縮だが、この西脇氏の作品と並べてみていただきたい。決して赤の他人ではない筈である。
(続く)