なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

牧師室から(30)

 昨日は木曜日でした。今週は辺野古新基地建設反対国会前座り込みには、連れ合いが行くので私は行きませんでした。第3木曜日の夜は船越教会の聖書研究会ですので、私は準備もあり何時もより早めに鶴巻を出て、午後1時前には船越教会に着きました。連れ合いは、沖縄の米兵による女性暴行への抗議のプラカード(?)を急遽作って、座り込みに出かけたようです。

 今日は1998年の教会の機関誌に書いたものを掲載します。


               牧師室から(30)

 敬老祝会(9月27日開催)が終わって、今年も出席できなかった諸兄姉を訪ねています。遠方の方にはプレゼントを郵送しました。一年という時間が高齢の諸兄姉には大変重いものと思われます。この1年間に75歳以上で召された方が11名もいらっしゃいます。例年と比べて特に多かったと思いますが、お年寄りの方には、一日が文字通り終末的なのでしょう。何時召されてもおかしくない、その一日を暮らす緊張感を想像します。けれども、実際のお年寄りの生活感覚は、特に寝たきりの方には変化の少ない平坦な一日なのかも知れません。弱った心身を抱えて、他者に支えられての生活は、ご本人に心理的な負担を強いるのでしょう。「みんなに迷惑ばかりかけて、生きていることが心苦しい」と言われる方もいらっしゃいます。そうおっしゃる方の家族の方との関係は案外良くいっているように見えますから、この言葉は、家族への労わりという面もあるのかも知れません。

 私はYさんがいらっしゃるキリスト教主義の高齢者軽費有料ホームに時々礼拝の説教や聖書研究を頼まれて伺います。終わった後、いつも参加された方々に一言ずつ質問や感想や話したいことがあれば、話してもらっています。パスする方もいらっしゃいますが、みなさん比較的よく話します。長い人生を生きて来られた方には、それぞれその人固有の体験の宝が秘められていることでしょう。そのようなお年寄りの周囲に、もっとゆっくりと耳を傾ける人たちがいたらと願わずにはおれません。
                            1998年10月


 先日教会の将来について考える会が持たれました。この会は宣教委員会の中で懸案となっていた、教会員の高齢化に私たちの教会はどう対応したらよいのかという課題から生まれたものです。役員と教職の他に一名比較的若いM兄が委員の一人に加わってくれました。そのM兄の最初の発言が、この会のことを聞いて、すぐに思い当たったことは教会の経済問題だったということです。つまり、教会員の高齢化によって、いずれ教会の経済が逼迫するから、そのことをどう対処したらよいのかという問題です。たしかにそういう現実的な問題は、私たちの教会にもいずれ覆いかかってくるかも知れませんが、この会の成立要因の中には、その問題は全く意識されていませんでした。むしろ、高齢の教会員の諸兄姉に教会は何ができるのかということが中心でした。けれども、教会ができることは限られていますので、今後の教会の在り方を含めて、この会で考えようということでした。

 私は、この会の成立に教会の将来の経済問題が入っていなかったことに、私たちの教会の健全さを感じさせられました。さらに、当日の会の発言にありました、高齢化の問題を教会が考える時、教会に来ている方だけではなく、教会に来ていない方々の問題を射程に入れなければならないのではという意見にも、同じ感想を持ちました。イエス・キリストの福音にどう応えられるかという問題意識を失った時、教会は一種の宗教教団に転落するからです。
                               1998年11月


 村上春樹が、オーム地下鉄サリン事件の被害者のインタビューをまとめた『アンダーグランド』の中で、こんなことを書いています。

 事件の被害者からすれば、自分は「安全地帯」にいる人間である。「そんな人間に『自分たちの味わっているつらい気持ちがほんとうにわかるわけはないと思う』と言われても、それはしかたないと思う。まさにそのとおりである。わかるわけはないと思う。しかし、かといって、そこでそのまま終わって、相互のコミュニケーションが断ち切られてしまったら、私たちはそれ以上どこにもいけないだろう。あとに残るのはひとつのドグマでしかない。

 そのとおりでありながら、(そのとおりであることを相互認識しながら)あえてそれを越えていこうと試みるところに、論理の煮詰まりを回避した、よい深い豊かな解決に至る道が存在しているのではあるまいかと考えている」。

 このことは、ぼくも他者との関係の中でいつも感じていることです。特にいろいろな事情で深い傷を負っている人との関係においてそう思います。そして、お互いの立場の違いについての相互認識を欠いた他者への越境は、「暴力」に等しいわけですから、慎重にならざるを得ません。そのために関係を回避するという消極性に陥ることもしばしばです。そのような消極性を克服して、他者に「きき、まなび、ともに生きる」(NCC教育部機関紙表題)道に生きたいと願っています。
    
                               1998年12月